紫気東来、嘉定の紫藤園のこと

2025/05/27 09:07

今春、4月中旬から5月中旬にかけて2025年上海国際花展が開催された。植物園などをメイン会場とし、公園は言うまでもなく街中の緑地にも様々なフラワーアートが展示され、お洒落に着飾った上海マダムたちが撮影に興じる姿が目立った。

 この数年来、この時期になると中国では「花見経済」という言葉が飛び交う。経済成長に伴う都市化と富裕化がその背景にあり、多くの人々が自然への憧れと農村環境への郷愁を抱きつつ、国内各地の人気スポットへ足を運ぶ。その過程で生じる様々な消費行動が経済を活性化させているのだ。中国花卉協会の最新データでは、花見経済の市場規模は1000億元規模(約2兆円)という。 

 そんな5月間近の週末、嘉定区にある紫藤園の藤を見ようと足を運んでみた。園内のむせかえるような藤の芳香に包まれ、誰もが皆、薄紫の枝垂れ藤のカーテンに優しく包まれていた。400mにも及ぶ藤棚の下を皆が皆、感嘆の声を漏らしながら何度も見上げては立ち止まり撮影していた。甘い蜜に誘われた蜜蜂も忙し気に房から房へ飛び交っていた。人も蜂も藤の花に酔いしれていた。

 そもそも藤の花は梅や桜、牡丹や玉蘭などと違い、中国ではさほど注目される花ではない。見る場所も限られ、晩春と初夏の間のほんのつかの間、その優雅で甘ったるい紫の花房に人は酔いしれるのみだ。ただ、その紫の花房のカーテンが春風に揺れて醸しだす優雅さはこの時期ならではの贈り物である。

 この嘉定紫藤園、実は日本と深いかかわりがある。そこには花を愛し、誠心誠意、日中友好に尽力し続けたある日本人の物語があったことを知る人は少ない。実は私自身、今回のコラムを書くまで恥ずかしながらその方を存じ上げなかった。だが、今回、その背後にあった物語を知り、深い感銘を覚えた。

 1980年代に入り、中国が改革開放路線を歩み始め、日中間交流が盛んになった頃、嘉定区(当時は嘉定県)と友好都市となった小さな町がある。岡山県西部にある和気町である。その立役者が当時、和気町長だった藤本道生氏だった。和気町は8世紀に民生安寧のために近畿地方で多くの治水工事を行う一方で、平安遷都を進言したり、遣唐使を支援したりした和気清麻呂の故郷でもある。さらに、上海在住経験のある親類の話を耳にして上海への憧れがあったこともあり、和気町長在任中に自ら提案して、1987年から嘉定県との交流を始め、1992年、正式に友好都市関係を取り結んだ。

そして交流開始十周年となる1997年には、和気町の藤公園から厳選した房の長い三十種、百二十本ほどの株を藤本氏が持参して、嘉定淀河に面する一画に自ら接ぎ木して栽培した。その後、彼の指導の下、立派に成長した藤棚を有する約1万㎡の紫藤園は晴れて2000年に開園。今では毎年50万人が訪れるという。

 この経緯については、日中文化交流の格好の話題としてこの時期になるとたびたび報道されてきた。開園以降も彼は毎年のように紫藤公園を訪れ、剪定や管理方法の指導、人材育成に尽力してきた。まさに「藤を通じた日中交流」に尽力し続けたのである。目の前にあるこの藤棚は、彼の藤の花への愛情と日中友好への熱き意志の結晶だと改めて実感する。長年の功績により彼は2018年、上海市白玉蘭栄誉市民となった。また、その功績を継承すべく「紫藤縁・玉蘭情」中日友好花見会が毎年開催され続けている。

今までその見た目の美しさに目を奪われるだけだった藤の花の背後に一人の日本人の存在があり、彼の志が形になりレガシーとなって生き続けていることは私にとっては実に新鮮な驚きであった。悠久な日中交流史の一コマに、こうした花を懸け橋とする絆があったことは実に意義深いことである。

 彼が町長在任中の1989年に和気町に開園した藤公園は、今では百種、百四十本の藤が咲き乱れる日本一の藤公園になっている。毎年、紫藤園と同時期に藤祭りが開催され、1mを超える枝垂れ藤に誰もが息を飲むという。

 いつの日か、和気の藤公園にも是非足を運んでほしい。藤の花に込められた彼の願いをかみしめながら、国境を越えて藤の花を愛でる日中の人々にそれぞれの幸運が訪れることを願ってほしい。「紫気東来」の紫藤園の藤の房たちが私の心の耳にそっと語りかけてきたような気がした。

(文・ 松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。

(中国経済新聞)