上海の「社区食堂」

2024/04/3 20:30

街中をジョギング中に面白い風景に出くわした。歩道に百名ほどのご老人たちがずらりと並んでいる。先頭に近づくと「幸福面館」というお店の前で何かを囲んで人だかりができていた。傍に立つお婆さんに尋ねると、この店では毎月の第一日曜日にラーメンセットを無料配布するのだという。よく見るとテーブルにはタッパに入ったラーメンがずらりと並んでいた。

先日、日本のテレビで中国の「貧乏セット」なる格安の食事セットが取り上げられていた。昨今の中国の経済事情とからめての報道だったが、ある種の違和感を抱いてしまった。確かに格安イタリアンで有名なS店の人気ぶりは疑えないが、それは安いだけでなく、コスパ以上のサービスが消費者に歓迎され続けているからだ。その一方で一貫二十元(四百円)、三十元(六百円)するお寿司屋や百元(二千円)を超えるランチセットを提供する店も土日ともなれば客であふれかえる。つまり、中国の飲食店の価格帯は極めて幅広いという実態を忘れてはいけない。さらに、「貧乏セット」の魅力はその安さ以上に、懐かしい家庭の味を安心して満喫できる点にこそある。

確かに中国では今、格安な飲食店は増えている。特にこの数年で急増している「社区食堂」はその代表格で、二〇一六年頃に最初に出来た阳曲路の「社区食堂」を皮切りに今では市内に一六〇〇を超える「社区食堂」が点在するという。もともと地域の食堂を改装した簡素な店もあれば、新築されたビルの一階に入る店もあり、さらにはカフェを併設するようなお洒落な店もある。天平街道にある築九十年の英国風洋館の「社区食堂」は上海で最も美しいと言われる。

ところで、「社区」とは中国の最も小さな行政単位の呼称である。例えば上海市はまず十六区に分かれ、各区はさらにいくつかの街道に分けられる。私が住む長寧区には九の街道があり、その中に多くの社区が点在する。「社区食堂」は当初、地域の高齢者への食事提供を主な目的として設置され始めた。当初は「高齢者食堂」とも呼ばれていたが、そのうち配送員などの若い都市労働者や学生、はては企業で働くホワイトカラーまでもが利用するようになった。また、自宅での食事がままならない共働き家庭の一人っ子にとってもありがたい存在となっている。住宅に程近く、厨房がガラス張りで衛生的。更にはビュッフェ形式でごはんのお代わり自由など、安価で栄養バランスもよくて温かい食事がとれる「社区食堂」は市民にとって今や単なる食堂の域を超えた存在、つまり地域住民の食と健康を支える重要な社会インフラになりつつある。

そんな「社区食堂」だが、中には最先端テクノロジーを駆使した店もある。我が家に程近い社区には完全自動化された「虹橋社区AI食堂」なる店が二〇一一年にオープンした。全自動調理器が百種類以上の品を全て調理し、支払いはスマホのQRコードや顔認証による決済である。ちなみにこの店の場合、お粥三・五元(七十円)、ゆで卵二元(四十円)、とうもろこしやさつまいもが一元(二十円)、油条(揚げパン)は二・五元(五十円)と破格の安さである。玄関横には二十四時間対応のラーメンの自動調理器まで設置されている。

「社区食堂」で食事していると、食べ残しの料理を丁寧にタッパに入れて持ち帰るお客さんも多い。「打包」という中国独特の習慣だ。「無駄をなくす」「合理的な消費」スタイルは地球環境にとっても歓迎すべき消費行動といえる。最近流行りの賞味期限間近の商品を取り扱うアウトレット店も、「フードロス」を防ぐ環境に優しく、中国における新しい購買スタイルととらえれば、むしろ歓迎すべきことではなかろうか。

このように「社区食堂」で満たされるのは決して空腹だけではない。独居老人たちは食堂で井戸端会議をし、共働き世帯の子供たちはお隣さんに見守られながら温かい食事がとれる。それゆえに、近所づきあいが根強く残る上海の社区では孤立する高齢者や子供は少ない。だからこそ、彼らの健康を食で支える地元の「社区食堂」が提供する格安セットは、決して「貧乏セット」などではなく、「親民セット」あるいは「幸福セット」と呼ぶべき食事なのである。

インフレで生活を切り詰めざるを得ない年金生活者や、「子供食堂」を利用する低所得家庭の子供たちの孤立感が社会問題となっている日本だが、市民の公的な福利厚生のインフラとなりつつある上海の「社区食堂」は日本社会の「食のウェルビーイング」を実現していくための一つのヒントになるのではなかろうか。

(文・ 松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。