1年365日のうち300日は雨が降ると言われる屋久島。
2026年4月3日はしかし、見事に晴れ上がっていた。日本各地から集まって来た中国人の顔に、こずえ越しの日差しが降り注ぐ。重さ5トンという花崗岩の石碑の前に立って、除幕の時を待っていた。
石碑には、「唐鑑真和上屋久島上陸記念碑」との13文字が刻まれていた。


紀元753年12月7日。過去12年間で6度にわたり日本への渡船を試み、船の故障や仲間の離脱を経て、両目がほぼ失明状態だった66歳の僧がついに屋久島の海岸にたどり着いたのである。
鑑真は俗姓を「淳于」と言い、江蘇省揚州の大明寺の住職で、日本から唐に渡った僧の栄睿や普照から仏教を伝えるよう要請され、「諸人行かざれば われ即ち行くのみ」との誓いを立てた。その後は暴風や病気、官吏の妨害などで失敗を5回繰り返す。5回目の渡船中に病いのためほぼ失明状態となったが、それでも挫折しなかった。鑑真は戒律や仏教だけでなく、医学や建築、彫刻、書道なども伝来し、海を越えた船隊が到着する都度、盛期の唐のあらゆる文明が伝わった。そして屋久島は、鑑真大師が初めて踏んだ日本の地なのである。
鑑真はのちに日本で「天平の甍」と呼ばれる。天平時代における高い屋根、という意味である。

今回の物語は、2023年3月にあった普通の旅行から始まる。
桜花学園大学教授の高文軍氏と夫の周先民氏が、鹿児島県屋久島を旅した。この島は杉の老木「屋久杉」で知られており、最の樹齢の古いものは7200年で、国連の世界自然遺産に登録されている。また屋久島は、宮崎駿氏のアニメ映画「もののけ姫」(中国名「幽霊公主」)の舞台にもなっている。


もともと屋久杉を見に訪れた高教授と周氏だったが、現地で中国が好きだという平田和文さんの案内を受け、1本の杭を目にした。
草むらの中で腐りかけており、時の流れにうずまりそうなその杭には、「紀元753年12月7日、鑑真和尚屋久島に上陸」と記されていた。
夫婦はこの杭の前で、言葉もなくしばし佇んだ。
2人は名古屋に帰ると、淡海三船が記した極めて有力な史料である「唐大和上東征伝」をめくってみた。そこには、「天平勝宝5年(753年)、鑑真大和尚が屋久島に到着」と明記されていた。つまり屋久島は、鑑真が初めて踏んだ日本の国土なのである。

鑑真大師が上陸したとされる屋久島の海岸
史書に記載されたこの地にはしかし、それを示す石碑などもなく、風雨にさらされポツンとたたずむその杭が歴史を語っていた。
高氏は、「これはでいけない」と無念そうにつぶやいた。

記念の杭を発見した在日中国人学者の周先民氏
2023年4月2日、記念碑の設立に向けて6人の実行委員会が発足した。
リーダーは高教授で、その夫である学者の周氏、南山大学教授の蔡毅氏、愛知華僑総会会長の趙晴氏、中部日本華人健行登山協会の会長である学者の董紅俊氏、琵琶の奏者で音楽家の涂善祥氏がメンバーである。居場所も分野も異なるこの6人は、「鑑真」という名前のために一堂に集まったのである。
委員会は鑑真の記念碑を立てるため、Wechatで「在日華人有志」との名義で寄付金募集の知らせを発した。1か月後にはグループチャットの参加者数が108人となった。
ところが順調にはいかなかった。日本人も含めた三者による実行計画は様々な事情を受け、2024年10月になってもほとんど進展がなかった。委員会は、寄付金を出してくれた「仲間」に対する申し訳なさを感じた。
そこで結局、独力で記念碑を立てることにした。

記念碑設立の実行委員会代表・高文軍教授
独力での記念碑設置、つまり用地の取得から資金集めまですべてを行うことになる。
まずは場所の選定である。地元町役場と繰り返し協議した末、2025年3月にようやく「行政財産使用許可」が下りた。委員会発足から2年近くが経過していた。
その次はお金である。
当初は三者の共同設置ということで、華人側の負担は3分の1となるはずだったが、結局単独での実行となった上、屋久島の自然環境にふさわしい天然の花崗岩を使うと決めたことで、石碑の大きさや重さがかなりオーバーしてしまい、設置費がとても足りなくなった。
鑑真の末裔でマカオの実業家である淳于盛凱(陳捷)氏は、この知らせを聞いて100万円を寄付してくれた。委員会によると、陳氏がいなければ記念碑の完成ははるか先になっていたという。

鑑真の末裔でマカオの実業家である陳捷氏。家族とともに除幕式に訪れた。
石材の問題については琵琶の奏者である涂善祥氏が受け持ち、岐阜県多治見市で水野氏親子が経営する石材店「石玉石材」を紹介してくれた。昔から涂氏の親友で長年にわたり中日友好に努めている水野社長は、記念碑設立の目的を聞いて、最適な施工方法を打ち出した上に、身銭を切って70万円余りを負担してくれた。
さらに水野社長は、わざわざ蘇州産の石材を選んでくれたのである。
蘇州は、鑑真が6回目に渡船した際の出発地である。古代から蘇州の地下に眠っていたこの石は、採掘され、型作りを経て、海を渡り屋久島にたどり着き、古今を結び付ける無言の立会人となった。
それでも設置費は足りず、委員会はやむなく2度目の寄付金集めをした。在日中国人が続々と救いの手を差し伸べたおかげで、再び目標額に達した。
2026年4月3日、屋久島で予定通り除幕式が行われた。

南山大学の蔡毅教授。除幕式の進行役を務めた。
鑑真大師の祖寺である揚州の大明寺や、鑑真大師が創建した唐招提寺、かつて仏教を広めた奈良の東大寺の住職から祝電が届いた。また日中友好議員連盟の会長である自民党元幹事長の森山裕氏は祝電で、「この記念碑は『日中両国友好の原点』であり、『両国を結ぶ未来の懸け橋』となることを願う」とメッセージした。衆議院前副議長の海江田万里氏は祝電を送ったほか、今回の除幕式にあわせて自作の漢詩を揮毫した。

森山裕氏(左)と海江田万里氏

唐の時代の宮廷楽師を身にまとい、自ら創作した「鑑真頌」を演奏する涂善祥氏。揚州風の曲調を交えたものだった。「1000年の時を越えて鑑真大師に再び故郷の曲調を聞かせる」と言った。(下図)

委員会の顧問を務めていた私は除幕式で、「鑑真大師は渡船を試みた6回のうち、5回は私の故郷である舟山諸島を経由した。そこで危険な目に合い、足を休ませたり、時には私の実家の近くで1か月も過ごしたりした。大師は66歳の高齢で目も見えない中、捨て身の覚悟と不屈の精神で不滅の灯のごとく中日交流の長き航路を照らした。今日、この屋久島という地に立って、上陸した当時の大師の辛抱や喜びを感じてしまう。『遠い所で同じ月や空を見ている』という深い友情がまさに歴史の大河を越え、私たちの心にぬくもりを伝えている。鑑真大師の精神が心に根付き、中日両国の関係が屋久島の古い樹木のように雨風の中で一層青々となることを願う」と話した。

「海外の華人はまとまりがない」などとよく言われる。
しかしこの日はその言葉に対し、各地に住み面識のない中国人が20人以上集まり、寄付金を出した100人余りの「仲間」の代表が、それぞれ自分なりに反論を残した。大学の教授や学者、音楽家、実業家、そして日本のどこかでひっそりと暮らしている普通の華人もいた。みんな、1人の名前のために1か所に集まり、3年の歳月をかけて、蘇州の岩を鑑真が上陸した場所まで送り届けたのである。


中国が好きだという島民の平田和文さん(石柱のすぐ左)が同行し鑑真上陸の地までたどり着いた一行。
石碑は重さ5トン。風で飛ばされる心配もない。
鑑真は、12年間かけて海を渡った。このメンバーは3年間をかけて、鑑真の上陸地に歴史にふさわしい記念碑を打ち立てた。
清明節の日の屋久島。貴重な日差しが柔らかく降り注いだ。
1273年前の冬と2026年の春が、こうして花崗岩の前でひそかに手を結ぶ。1000年以上も続く中日両国の友情である。
(文:徐静波)
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【筆者】徐静波、中国浙江省生まれ。1992年来日、東海大学大学院に留学。2000年、アジア通信社を設立、代表取締役社長に就任。翌年、「中国経済新聞」を創刊。2009年、中国語ニュースサイト「日本新聞網」を創刊。1997年から連続23年間、中国共産党全国大会、全人代を取材。2020年、日本政府から感謝状を贈られた。
講演暦:経団連、日本商工会議所など。著書『株式会社中華人民共和国』、『2023年の中国』、『静観日本』、『日本人の活法』など。訳書『一勝九敗』(柳井正氏著)など多数。
日本記者クラブ会員。
