早春の荣氏梅園に想う

2025/03/28 12:15

早春の薄曇りの空の下、満開となった紅白の梅の花が気品のある香りを放っていた。その木々の合間を縫う小道を隊列を組んで練り歩く花見客たちの甲高い声と賑やかな会話で梅園はさながら春爛漫の様相を呈していた。

 3月のある日、無錫にある栄氏梅園に足を運んでみた。百年以上の歴史を有し、八十一畝という広大な敷地には約4000本の梅の木が植えられている。上海の世紀公園や顧村公園、また華東地域では太湖、南京、杭州などの梅も有名だが、以前、黿頭猪の桜を見に来た折、この庭園を素通りしてしまい、ずっと気になっていたのだ。

 この日は、平日にも関わらず、入り口は大混雑で老若男女を問わず、複数の団体客でごったがえしていた。その入場者らにもみくちゃにされながら園内に入ると見事に開花した梅の花が出迎えてくれた。濃淡のある紅白に彩られた梅園は人影さえなければ、さながら桃源郷のようであっただろう。

 園内には長い歴史を感じさせる重厚な石造りの建造物もあった。1914年完成の「香海軒」をはじめ、別荘、塔、そしていくつもの四阿(東屋)があり、それらは全て無錫の企業家、栄德生氏によるものだ。1875年に無錫に生まれた彼は、1900年にその兄宗敬と製粉業を立ち上げる。その後、紡績工場も立ち上げ、1922年には十二の製麺工場と4つの紡績工場にまで事業を拡大し、「製粉王」または「繊維巨星」と呼ばれるほどの中国最大の民族資本家となる。

 事業に奔走する中、1906年、彼は初めて蘇州の留園を見学した際、その一角に刻印された『易経』の「生曰徳大」に不思議な縁を感じ、2度目の蘇州の墓参で梅園の築造を決断したという。1912年、この地に梅の植林を決定し、まず1300本の梅の木を植える。その後、梅林を拡張する一方で、香雪海屋(現、香梅軒)をはじめ、別荘や塔などを増築していった。さらに、1915年に梅園は無料開放され、訪れるものが絶えなかったという。それゆえに、この地域の「公益事業の始まり」とも賞賛されている。

 ひとつの立派な建造物の前では、いくつかの団体がガイドの解説に熱心に耳を傾けていた。1922年に徳生が兄宗敬の五十歳を祝って建造した宗敬別荘である。その裏を抜けて梅の坂道に出ると、小高い丘の上に梅の花に見守られるかのように立派な塔が見えた。1930年に亡くなった母のために建立した念劬塔だ。名は詩経の『哀哀父母、生我念劬』(苦労して産み育てた父母への感謝)からとったのだという。塔の横の小さな亀池には大きなカメが水面から顔をのぞかせており、その後ろに「以善済世」と刻まれた碑があった。

 ほんのり汗ばんだ頃に梅園の高台にたどり着くと、ようやく梅園の全貌が視野に入った。濃淡のグラデーションで覆われた梅園はまさしく早春の風景にふさわしい。輪になって快活に踊るグループを横目に遠望すると春霞の中、南には太湖が、北には恵山が、そして東には無錫の街並みが見えた。しばしの間、お茶を飲みながら景色を堪能して梅園を後にした。

 梅園の北東に位置する恵山は登山口前にある古鎮こそ喧騒のさ中にあったが、山道を歩きだすと人の気配はなくなり、静寂に身を置くことができた。ひとしきり急登を登りきってたどりついた展望台からはカラフルで可愛いロープウェイの向こうに無錫の街が一望できた。

 その後、小1時間ほどかけて三茅山まで静かな山道を歩いてみた。時折木々の合間から見える無錫の街を眺めては、先ほど訪れたばかりの梅園のことを考えてみた。栄兄弟の絆、父母への孝順、そして、何よりも事業で生み出した利益の一部を惜しげもなく投じて華東地区を代表する梅園を遺し、万民の福利のために無料開放したこと。それはまさに孔子の高弟、子貢に始まる「儒商」ではないか。「以造福老百姓為己任」の信念の下、徳生は九十二の橋や江南大学を含む十一の学校を造った後、1952年、無錫でこの世を去った。しかし、その子孫たちはその後も中国の各界で活躍しているという。『易経』にいう「積善の家に余慶あり」とはまさにこのことである。

 古来より中国で愛されてきた梅はその孤高の気品と高潔さゆえに幾度も絵に描かれ詩に詠まれてきた。寒風に耐えるその気品漂う香に人々は待ちわびた春の訪れを知る。思えば、かつて日本の古人も「東風吹かば にほひ起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と詠んだ。梅園を遺した栄兄弟の姿はなくとも、梅園の梅は毎年この時期に人々に春の訪れを告げ、早春の梅園を華やかに彩るのである。

  (文・松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。