日本の和服は中国人の「愛国服」になれるか

2024/10/21 07:30

週末、久方ぶりに東京の浅草寺に行った。

雷門へ向かうと、大勢の人がいて写真が撮れる場所もないほどだった。

雷門から寺の本殿に通じる参道は両脇に店が並び、商店街のようであった。

これらの店は、コロナを経て変化があり、構えを刷新してリニューアルしたように見える店もあった。ただし通り全体で見ると、生活臭が十分に漂い、食べ物や工芸品、さらには様々な記念品を売っていたりして、やはり趣のあるものだった。線香や数珠、菩薩像などもなく、中国のお寺の参道とは随分違ったものだった。

浅草寺では、和服姿の観光客を随分見かけた。至ってシンプルなもので、ほとんどが浴衣だった。

欧米人、あるいは東南アジアの人達も多かった。東南アジアの観光客は多くが家族での旅行であり、お年寄りから子供まで貸衣装の和服を着こんで練り歩いており、浅草寺を彩る光景となっていた。

以前は、中国人観光客が和服姿で記念撮影をしている様子をよく目にしたが、よくよく見るとそのような姿はほとんど見えなかった。和服を着た姿を撮られてネットにでも載ってしまえば、たちまちにして「売国奴」呼ばわりされてしまうからだろう。中国では今、「和服」という言葉自体でハラハラするような感覚に襲われるようになっている。

ただし東南アジアでは、そのような歴史的な重荷がなさそうであり、嬉しそうに和服を着こんでいる姿が見られた。彼らの日本旅行は中国人よりもずっと楽しめるものなのだ、と不意に感じてしまった。

和服は、昔の日本では「呉服」と呼ばれており、中国の漢や隋の時代に日本に伝わり始めたものである。当時の中国は、日本から一番近い沿海地域も含む長江南側は「呉の国」であって、絹織物の最大の生産地であった。

一方、当時の日本はまだ古墳時代であり、皇族はみな麻の服を着ていて、絹織物などは知らなかった。

よって絹の漢服が日本に伝わると、たちまち上流社会の衣装となり、そこで「呉服」と呼ばわれるようになった。350年以上も前、東京の日本橋で三越が開業した際の名称は「呉服店越後屋」であった。株式会社となった1904年も「三越呉服店」という名称であった。

日本では後に、中国由来の「呉服」に手が加えられたが、本質は変わらず、ルーツははやり中国の漢服なのである。中国では時代の移り変わりとともに漢服を着なくなってしまったが、だからといって日本に伝わり続ける「呉服」を「売国奴の服」などと言うわけにはいかない。中国の先祖に申し訳が立たないというものである。

またその当時、中国から日本に亡命していた孫中山(孫文)は、見かけた学生服のスタイルが大変いいと感じ、仕立て屋に似たような服を作らせた。それを中国に持ち帰ると、たちまち人気を集め、「中山服」と呼ばれるようになった上、「国服」となった。中国では今でも大切な場でこの「中山服」が着用されることが多い。

和服も中山服も然り、隣り合う中国と日本は元から見つめ合う仲であって、服のデザインや着こなしで参考にし合うことはごく自然なことである。着るもので歴史にこだわる必要はないのだ。

中国人観光客が過去のこだわりを捨て、好きな和服を思い切って着てほしいものである。なにしろ呉服は中国の先祖が来ていた服の面影なのだから。

(文:徐静波)

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【筆者】徐静波、中国浙江省生まれ。1992年来日、東海大学大学院に留学。2000年、アジア通信社を設立。翌年、「中国経済新聞」を創刊。2009年、中国語ニュースサイト「日本新聞網」を創刊。1997年から連続23年間、中国共産党全国大会、全人代を取材。中国第十三回全国政治協商会議特別招聘代表。2020年、日本政府から感謝状を贈られた。

 講演暦:経団連、日本商工会議所など。著書『株式会社中華人民共和国』、『2023年の中国』、『静観日本』、『日本人の活法』など。訳書『一勝九敗』(柳井正氏著)など多数。

 日本記者クラブ会員。