「ごめんなさい僕に言えるのはそれだけです」
唐突なことばに思わずテレビに目を向けた。画面はNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」。日本において女性としてはじめての弁護士となり、判事、裁判所長を務め法曹界におけるパイオニアとなった三淵嘉子をモデルにしたということで話題になっているドラマである。冒頭の言葉は、主人公の寅子とともに働く男性裁判官の絞り出すような独白である。この光景がどう展開するのか、何が語られるのか、注視し、耳をそばだてた。
この男性は、昭和15年(1940年)に設置された内閣総理大臣直轄の「総力戦研究所」に選ばれて身を置いたというのだ。重要な内容を含むセリフなので長くなるが採録しておく。
「官界や民間組織から30代の優秀な人材が集められました。研究所の目的は総力戦の本質を明らかにし、その運営の中枢人物に足る必要な能力を習得させること、そして大戦に向けて軍を、国民を指揮監督する人材を育成すること。僕たち研究生は模擬内閣を発足させ机上演習をおこないました。日米戦争を想定した総力戦の机上演習です。机上演習の結果は日本が敗戦、その理由は資源の自給率の低さなどさまざま、何度も演習を重ねましたがその結果が覆ることはなかった。僕らは机上演習の結果を報告した。当時の国の中枢を握っていた人たちの前でね。万に一つも勝利はなし、日米開戦は避けるべきと。でも彼らは言った。これは机上演習であって実際の戦争とは全く異なる。研究に関する諸君らの努力は認めるがこの演習の結果は政府の方針とは何らの関係もない。僕らは口外を禁じられて解散となりました。その後戦争は机上演習をなぞるように進みそして日本は敗戦した。さすがに原爆投下は予想できませんでしたが…」。続けて、「責任が微塵もないなんて、自分は従ったまで、なんて僕は言えない…」と、戦争を阻止できなかった自身を悔やみ、身をよじるように吐露するのだった。
「良心の人」の真心のこもる述懐、と言えばそうかもしれない。しかし、ここには重大な欠落がある。
それは何か?
日米開戦に先立つ中国への侵略という重要な歴史が欠落しているのである。「先の大戦」を日米戦争に矮小化してしまっていることである。「先の大戦」は日米の戦争が本質ではない。あえて言えば、それは、あくまでも結果である。中国への侵略、そしてアジア・太平洋への戦線の拡大があったればこそ日米開戦へと展開したのである。この欠落は、意図したものか、あるいは意図せざるものかを問わず、致命的と言うべき重大な問題を孕むものである。
日本の中国侵略をどこに始原を取るのか、歴史家の中でもさまざまな見方があるが、短く見積もっても、少なくとも、「日中戦争」の「勃発」として語られる1937年7月7日の「盧溝橋事件」から遡る1931年9月18日の「満州事変」、あるいはさらに遡る1928年6月4日の「満州某重大事件」すなわち、関東軍による張作霖爆殺をも視界に入れて歴史を見据えなければならないだろう。「日中戦争」と記したが、注意を要するのは、日中間には「宣戦布告」もないまま(言うまでもないが、宣戦布告があればそれでいいということではない)、「満州事変」「上海事変」など「事変」というごまかしの「用語」の下で、旧満州から中国全土へと略奪と殺戮の戦火を広げ、日本は泥沼の戦争の道へと進むことになったことである。
「戦争を押しとどめることができなかった」と悔いるなら、この中国侵略へと舵を切る日本のあり方をこそ押しとどめるべきだったのであり、さらに言えば、国民の熱狂の中で侵略戦争の道を歩んだことを悔いるべきなのである。
そして、この欠落は、さらに重い問題を孕むものとなる。すなわち、この男性の吐露する言葉にあるように、先の大戦は物量を誇る米国に敗れたとする「常識」をあらためて視聴者の意識に刻む事で、日本の侵略の暴虐に対する中国の民衆の抵抗に日本帝国主義が敗北したという、日本の敗戦の歴史的意味と、侵略戦争に対する戦争責任について、あいまいにしたまま蓋をしてしまうという重大な欠落を孕んでいるのである。問題はここにとどまらない。
「終戦の日」8月15日は、あくまでも天皇によるポツダム宣言の受諾、降伏が宣せられた日であり、その後、米戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書への署名がおこなわれ、米英連合国、とりわけ米国への敗北というイメージを日本国民の意識に刻印することで、戦後の日米関係の構図を決定づけることになる。すなわち、その後日本に「単独講和」への道を選択させ、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約によって現在まで連綿と続く日米同盟基軸がすべてという日本を堅固に形づくることになり、それをあたかも「常識」とする日本人の意識形成をさらに醸すことになるのである。こうして、中国の人々への戦争責任についてはまったくと言っていいほど省みることなく、戦後日本の歩みを肯定していくという、実に根深い問題を私たちは抱えることになったのである。
毎年、8月になると新聞、テレビはじめあらゆるメディアに「戦争企画」の記事、番組があふれる。しかし、そこで語られる「悲惨」はすべて、われわれの側、つまり日本人のわれわれの戦時中の辛く厳しい暮らしぶりや、肉親を戦争で失った悲しみばかりである。そして繰り返し「平和の尊さ」が語られる。しかし、侵略の暴虐にさらされた中国、アジアの人々の苦しみと悲しみ、悲惨について語られることはきわめて稀少と言わざるをえない。まして、そこでの加害責任、戦争責任について語られることはほとんどない。さらに、中国への侵略戦争は軍部、政治家に一義的な責任があることは言うまでもないが、それこそ「日支事変」当時、新聞の大見出しとなった「暴支膺懲」、中国叩きにごく普通の国民が熱狂したことも忘れてはならない。これもまた、われわれの歴史である。こうした、われわれのありようと正対するものは無きに等しいというべき8月の「戦争企画」である。
日本人の尊厳を言うなら、中国への侵略の歴史、加害責任、戦争責任について真正面から語る覚悟と勇気、気高さがあってしかるべきではないか。歴史は一様ではない、様々な側面がある、様々な解釈が成り立つなどという、いわゆる「歴史相対主義」という「まやかし」が堂々とメディアや論壇で跋扈する時勢である。過去と向き合うことから逃れようとする発想、風潮が世の流れとなってしまうようでは、とてもではないが中国はもちろんアジアの人々、世界の人々と真の信頼関係など生まれようもない。このことを、いま一度厳しく認識しておかなければなるまい。
朝の連続テレビ小説の一コマの唐突なセリフに考えさせられ、書き綴ってきたが、「たかがドラマ、そこまで目くじら立てずとも」という言い分もあるかもしれない。しかし、たかがドラマではないのだ。こうして時勢、時代の空気というものは形づくられるのである。些細なことと見逃すことは、未来への禍根を残すことになる。われわれ一人ひとりが厳しく問われ、試されていることを忘れてはならない。79回目の「終戦の日」を前にして。
(文・木村知義)
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【筆者】木村知義(きむら ともよし)、1948年生。1970年NHK入社。アナウンサーとして主に報道、情報番組を担当。1999年から2008年3月まで「ラジオあさいちばん」(ラジオ第一放送)のアンカーを務める。同時にアジアをテーマにした特集番組の企画、制作に取り組む。退社後は個人研究所「21世紀社会動態研究所」で「北東アジア動態研究会」を主宰。