「空気」が変わった!いま中国と向き合うための「異見」

2024/04/6 07:30

余りと言えば余り、これがジャーナリズムと言えるのか、そんな感慨を抱きながら各メディアの報道を追った。第14期全国人民代表大会(全人代)第2回会議にかかわる報道である。

と書くと、「何を世迷いごとを」と非難の矢が飛んでくるかもしれない。それほど中国をめぐる「空気」は決定的に変わったと言わざるをえない日本の世情である。そんな「空気」へのささやかな「異見」の、ほんの一端である。

今回の全人代にかかわる各メディアの報道から、あえてそのままに挙げれば、習近平主席への一層の権力集中、中国共産党独裁の強化、国務院の形骸化、さらには経済の行き詰まり、中国社会の衰退…と際限がない。なかでも、全人代閉会後の李強首相の「記者会見取りやめ」をめぐる論評はその最たるものと言えよう。

たとえば、今回の全人代の取材で5年ぶりに北京を訪れたというある記者は長く会っていなかった中国の友人達とレストランで円卓を囲む。そのうちの一人は「ロシアのプーチン大統領だって米国人の取材を受けていた。我が国には自らの主張を堂々と説明できる指導者がいないのか」と言ったという。記者は「なぜ記者会見は開かれないのか」と問を立ててこう語る。「習近平政権の下で政府に対する共産党の優位、党内での習氏の絶対的地位が固められた。その仕上げとみることはできる。ナンバー2の首相は発言無用、というわけだ」。加えて「真相はもっとくだらないのではないかと思わせるうわさを知人から聞いた。記者会見でどんな質問がありうるか、担当者らが予行演習をした。李克強前首相死亡の真相。外相と国防相を解任した理由。ロケット軍内の不祥事。聞かれたくない話があまりに多く、取りやめる判断に至ったというのだ。久しぶりに外国の記者が大勢来ている。事前に質問内容を調整する手はあるが、欧米メディアがおとなしく従う保証はない。リスク回避は当然だと考えれば、うわさに説得力がある。習体制の仕上げというよりは病理の表れというべきか」と続けるのであった。

冷静に読めば、あくまでも「うわさ」であるが「説得力がある」と、取材者としての責任を回避できる「逃げ道」を用意して書いている周到さに気づく。しかし、「習体制の病理の表れ」だという論評の醸す「効果」は十分というべきだろう。

では、象徴的事例として挙げたこの「李強首相会見取りやめ」はどう読み解けるのか。結論から言うならば、取材に当たった日本メディアの記者達は「部長通道」あるいは「経済」「外交」「民生」の三つの「主題記者会見」を詳らかに取材したのかという「問い」に行き着く。残念ながら、唯一、内外記者500人余による21問にわたる質疑となった王毅外相の外交会見を除いて、報道からその「跡」はうかがえない。

全人代開幕の5日朝からCCTVの中継特番を視聴した。李強首相による「政府活動報告」が終わったあとの「部長通道」に、まず科学技術部長の陰和俊氏、続いて農業農村部長の唐仁健氏が立って記者からの質問に答える光景に、いま中国が何を考え、今回の全人代の運営、進行をどう考えているのかが読み取れた。「形」ではなくどう「実」をあげるのかに注力しようとしていることが見えてきたのである。とりわけ三つの「主題会見」を設定したことで、総理たる李強氏が概括的な応答に当たることをはるかにこえる密度の高い内容となったことを考えると、「李強会見取りやめ」の含意が読み取れるものであった。

それにしても、「複雑極まりない国際環境と困難で重い改革・発展・安定の任務を前にして」「外部からの圧力をしのぎ、内部の困難を乗り越え」と、「政府活動報告」の冒頭からの痛切かつ重苦しい述懐は何を意味するのか、解読したメディアは皆無だった。現在の米中関係の対立の先鋭化と複雑化を踏まえればいくつもの解読が可能だが、今また、昨年12月本欄で触れた新華社系のシンクタンク「新华社国家高端智库」によるレポート「起底美国军事霸权的根源、现实与危害」(米国軍事覇権の根源、現実と害毒をあばく)を思い起こさざるをえない。華字2万字におよぶこのレポートは、建国以来の米国の歴史を遡りながら、米国覇権がどう形成され、世界にどのような災禍をもたらしてきたのかを検証した報告書である。政治扇動的な水準の文書ではなく、米国の文献に分け入り、歴史的事例を細かに研究した、深く精緻なレポートとなっていることに驚いたものだ。

せんじ詰めれば、世界秩序の歴史的転換期にあって、政治、外交、安全保障、そして経済、産業、科学技術とあらゆる領域にわたって徹底した「中国抑止」に動くとともに、価値観の相違を盾に、陰に陽に、中国のありように対する「変化」を促す圧力を重ねる米国の姿を浮き彫りにしたものである。中国の立場からは、「民主」の名の下に仕組まれる「和平演変」をこそ警戒しなければならない時代状況にあると認識していることが伝わってくる「政府活動報告」の苦衷に満ちた文脈である。これは日本の「われわれ」の感覚と隔たるものだと言ってみても意味をなさない。中国を「最大の安全保障上の脅威」すなわち「敵」と位置付け、日本はじめ同盟諸国を総結集して、その度をますます深くしていることは、米国情報機関などから発せられる「戦略報告」などで既知の通りである。

中国は日々そういう緊張感の中で目を凝らし、息を詰めて、世界を、国内外の動向を注視し分析しているということである。こうした世界の現代的構造と中国の立場を視界において冷厳に事態を分析することは、ジャーナリストの、あるいは国際問題をテーマとする研究者のもっとも基底となる責任と心得るべきである。

今回の全人代は「経済」がすべてと言っても過言ではない状況下での開催だった。平易な言い回しを採るなら、不動産投資はじめ「実体」なき経済の「熱狂」から地に足着けた「真っ当な」経済への転換という、まさしく「痛み」の伴う経済・社会の変革をどう進めるのかという重い課題と向き合う全人代であった。現下の経済の苦境の中で、どう中国の発展の道を見出すのかという命題を課せられたと言い換えてもいい。ゆえに「部長通道」にまず科学技術部長が登場した意味も読み解ける。ハイテク分野はじめイノベーション駆動型の産業力による中国経済先導を構想したことが伝わってくる。その上で、習近平時代の「現代の社会主義」という枠組みにおける、実体ある経済への転換に際しても必要とされる成長というものがあり、そのための金融はじめ産業・経済にかかわる実効ある政策が問われることになる。そこを注視し、過不足なく的確に読み解くことこそが中国報道の役割と言える。中国経済の行方は、否応なく、日本のわれわれにとどまらず世界の経済を左右する重要な要因としてあるからである。

そうした視角から、いま中国と向き合う際に必要な「論立て」はいかに生産的な指摘、提起ができるかである。中国をめぐるこの日本の「空気」感のなかで、たとえ「異見」とされようとも、生産的を旨として中国と向き合えるか、まさにわれわれ一人ひとりが鋭く問われていると考えるのである。

(文・木村知義)

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【筆者】木村知義(きむら ともよし)、1948年生。1970年NHK入社。アナウンサーとして主に報道、情報番組を担当。1999年から2008年3月まで「ラジオあさいちばん」(ラジオ第一放送)のアンカーを務める。同時にアジアをテーマにした特集番組の企画、制作に取り組む。退社後は個人研究所「21世紀社会動態研究所」で「北東アジア動態研究会」を主宰。