先日、中国西安の防空壕で涼をとる市民の姿がニュースになっていた。防空壕内はテレビは無論、ネット環境も整備され、大型スクリーンでゲームまでできるという。新聞を読んだり、勉強したりする市民の過ごし方はむしろ新鮮に映った。
八月の暑い上海で思い出すことがある。義父の扇風機の話である。技師であった義父は自ら扇風機を作ったことがあるのだという。一九六〇年代当時、上海市民にとって扇風機は高嶺の花だったらしい。大音響を立てながら回る手作りの扇風機に近所の住民は羨望のまなざしを向けていたという。まだ扇風機さえ普及していなかった時代のことで、妻の自慢話になっている。
私自身も二十六年前の一九九八年の暑い夏の夜に忘れられない出来事に遭遇した。当時、上海の西はずれの仙霞路に一時期住んでいた。仙霞路が走る長寧区は開発区で、通りの両側には日本人客相手の飲食店がずらりと立ち並んでおり、上海に滞在する日本人駐在者にとってはありがたいエリアでもあった。最高気温が四〇度を超えたとある夏の夜のことだ。当時、通りには街灯は少なく、飲食店街から外れた通り沿いには暗闇が広がっていた。物珍し気に歩道をぶらついていると、突然、前方に大勢の人たちがずらりと並んでいる光景が目に飛び込んできた。怪訝に思って目を凝らしてよく見ると、老若男女を問わず、コンクリートの歩道に敷いたござや簡易ベッドの上で寝そべっていたのである。それが「乗涼」(納涼)という夏の過ごし方であると知ったのはずいぶん後のことだ。エアコンが普及する以前の夏の上海では、夕方になると人々はビル風の吹き抜ける一画や里弄の玄関口で椅子に座り井戸端会議に花を咲かせたという。スイカやアイス棒を頬張ったり、「酸梅湯」(梅ジュース)などの「冷飲」を分かち合ったりして過ごす「乗涼」は上海市民にとって大切な憩いの場であり、夏の風物詩とでもいうべきものであったのだ。
だが、開発が進み、公共インフラが充実し、さらには人々の生活の質が向上する中で、上海の夏の過ごし方にも変化が表れ始める。言うまでもなく、住宅や公共施設に設置され始めたエアコンが夏の過ごし方を激変させた。国産初の本格的エアコン、春蘭の「雪蓮」が生まれたのは一九八八年、上海発のエアコンつきのバスの運行は一九九六年という。家庭用エアコンや冷蔵庫が普及する以前の一九七〇年代は夏になると市民は中央空調が稼働する大光明や国泰などの有名映画館でしばしば涼をとったのだという。映画鑑賞よりも涼むことが入館目当てだった客もさぞかし多かったのではなかろうか。
その後、二〇〇一年から二〇一〇年にかけて、国産外国製を問わず家庭用エアコンが急速に普及していく。住宅用エアコンが普及する過渡期には、エアコンが設置された公共施設で涼をとる近隣住民が多く訪れた。図書館では多くのご老人たちがテーブルで午睡を楽しみ、銀行で涼をとる市民の姿も目立った。さらに続々と完成したデパートには買い物ではなく、あくまで「涼」を目当てに訪れた市民の姿が目立った。今では考えられないが、当時のデパートでは、パジャマ姿のお客をしばしば目にした。きわめてシュールな光景ではあったが、今にして思えば、風呂上りや夕食後にデパートに涼みに来た人たちだったのであろう。これもまたエアコン以前の上海の風景であった。なお、ある統計によれば世界で一億千七〇〇万台といわれる家庭用エアコンの需要のうち中国はその三十七%にあたる四三〇〇万台を占めるとされるエアコン大国となっている。
八月の上海は暑い。しかし、今では室内で快適に過ごすことが出来る。空調設備が完備した公共施設や交通機関のおかげで上海の夏は以前とは比較にならないほど快適になった。ただその一方で「乗涼」を楽しむ市民の姿を懐かしむ気持ちもある。夏の夜の風物詩でもあった「乗涼」という過ごし方。そこには地域住民同士のささやかな交流があった。じめじめした暑さも、心地よい涼風も皆で分かち合う姿がそこにあったのだ。「涼しさ」ばかりを追ってエアコンの効いた部屋に閉じこもるのもいいが、たまには暑い夏を体感するのも悪くない。季節感が喪失しつつある昨今、時には室外で汗をかきながら夏の木陰でアイスやスイカを頬張り、美しい夕焼け空を見ながら夕涼みを楽しむのもまた一興ではないだろうか。
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(文・ 松村浩二)
【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。