上海の本屋さん

2022/04/30 12:56

 少年時代によく通った町の本屋さんは、雑誌や単行本、コミックや文庫文が所狭しと並ぶ、さながら小さな図書館だった。入り口左にレジがあり、,マンガやスポーツ関係の雑誌の新刊はたいていそのレジの横にあり、店主が気になって表紙を眺めては立ち読みしたい衝動を必死にこらえたものだ。この 20年来、インターネットの普及に伴い、出版文化はネットによる情報の氾濫に翻弄され、今では活字文化そのものの行く末が心配されている。日本でさえそんな危機的状況に瀕している出版業界とその最前線に立つ本屋さんは、ネット社会、スマホ社会と化した上海なら尚更のことだろう、と誰もが想像するにちがいない。しかし、上海の現実はそんな予想を見事に裏切ってくれる。

 確かにかつての上海の本屋は日本以上に地味で殺風景な場所だった。代表的な本屋は国営の新華書店で街中に点在し、中でも1998年に開業した「上海書城」は市中心部の福州路にある上海最大の本屋だった。開店時は本の値段が数角(10角1元)なのに対して3元(約54円)の人場料を徴収しても来客は「人山人海」のように途切れなかったという。年中、老若男女で大賑わいのこの「書城」を初めて訪れて驚いたことがある。それは、誰もがすらりと床に座り込み、あるいは寝そべって読むふける光景だ。「立ち読み」が当たり前だった私には、この「座り読み」はカルチャーショックであった。 しかし、その一方で、誰もが食い入るように活字を目で無心に追う姿は新鮮でもあった。その後、中国はネット社会に突入し、若者の本離れも加速していく。しかも他のコモディティと同様にネット購入の激増と、電子書籍の普及に伴い、本屋も激減するかに見えた。しかし、実態はそうでもない。というのも、ネット社会の進展に歩調を合わせながら本屋もまた不断に進化してきたからだ。ただ本を並べただけの素っ気無い空間が、気鋭のデサイナーによって斬新かっスタイリッシュな魅惑の空間へと変貌し始める。レトロ調デザインが特徴の「大隠書局」、安藤忠雄による「光的空間新華書店」、上海センタービル52階に鎮座する雲上の「雑雲書院」、詩歌の殿堂「思南書局」、最も美しいと評判の「鐘書閣」、そして2020年開業の日本の「蔦屋書店」など、その見事な空間デサインには目を見張るばかりだ。しかも、本以外にもお洒落で個性的な文具、絵画、手芸アートなどを展示販売する店も多い。中でもひときわ存在感を示すのがお洒落な店内カフェだ。居心地よさそうな雰囲気の中、多くの客がコーヒー片手にお気に入りの本を耽読している姿はもはや見慣れた風景となった。かって本を「座り読み」するか買うだけだった本屋が、今では、本好きな人々の知性を刺激し、美的感覚をくすぐるクリエイティブで魅力的な非日常空間として生まれ変わったのである。

 書棚に並ぶ本も実に多種多様だ。各分野の最先端を行くような外国の新刊本が翻訳されていることにも驚かされる。日本関係の書籍も目立つ。村上春樹の人気ぶりは相変わらすだが、東野圭吾や宮部みゆきなどの人気作家を初め、明治の文豪、夏目漱石や芥川龍之介たちの渋い古典も堂々と書棚に鎮座しているのは嬉しい限りだ。多様な言語と文化の媒体としての本からなる本屋という限られた空間はさながら世界の知識と文化を吸収しながら成長し続ける中国社会の縮図のようでもある。

 そんな上海の本屋さんだが、最近は新規開店のお洒落な本屋を訪れる若い女性たちの姿が目立つ。店内のデザインや斬新なアート作品を撮影する、いわゆる「インスタ映え?」する瞬間を切り取る「買わない客」だ。だが、彼女らのNSNを通じた強烈な発信力は本屋には心強い援軍でもある。ネット社会で活字文化の危機が叫ばれる中、新規開業店に若い女性を初めとする大勢の来客があるのは、旧来の本屋の常識を超えた全く新しい場との出会い、すなわち「豊かで多様性に溢れた空間」への期待からだろう。上海の本屋さんに求められるのは、本を取り囲む、読むための建築、あるいは読める空間なのだ。

 今の上海の本屋さんを通じて見えてくるのは、本の魅力を最大限に引き出せる場の演出装置へと注がれ始めた新たな眼差しの出現と本屋をめぐる価値観の変容なのではなかろうか。

(文・ 松村浩二)


【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。