中国がめざす「共同富裕」と「第三の道」

2022/04/30 13:03

 「習近平が『共同富裕』を持ち出したのは、経済がうまくいっていないからだ。格差をのりこえていくと言っているのも、すべて狙いは長期政権化だ。来年以降政権が生き延びるかどうかの一種のサバイバル戦略に出ているのだ。血相が変わってきている…」

 これはテレビの報道ワイドショーでの、ある識者のコメントである。

 「共同富裕」の提唱によって「巨大IT企業の巨額の利潤に続いて芸能界の脱税がやり玉に挙がった。学習塾など教育産業の一部は無償化されて大手民間企業の経営者にとっては氷の時代が始まった」と書いた中国を専門とするジャーナリストもいる。

 ある新聞の記者は「中国共産党の習近平指導部が、かつて鄧小平が改革開放の未来像として想定した『共同富裕』の実現に向け本腰を入れ始めた」と北京発で伝えてきた。

 こういう言説に接しているといささか「疲れる」と言うと不遜に響くだろうか。

 まず、もっとも基本的な歴史的認識から確認しておかねばならない。

 「共同富裕」というのは鄧小平時代に始まるものでもなければ、中国の指導部が何かに行き詰って言い始めたものでもない。「共同富裕」は中国革命の根幹をなす目標であり概念である。読者諸賢にこんな初歩的なことを持ち出すのは失礼というものだが、中国に駐在し、中国を専門とする記者のなかにもこの基本認識の欠落しているケースが散見されるのである。

 1949年、中華人民共和国成立によって中国は新民主主義による国内建設に踏み出した。その後、土地改革の進展に立脚して、1952年9月、毛沢東は10年から15年かけて社会主義への移行をめざすことを明らかにする。そして、1953年末、「中共中央の農業生産合作社の発展に関する決議」において「共同富裕」を掲げた。中国指導部が掲げる「共同富裕」を理解する際には歴史的な「過程」と「段階」という「複眼」が欠かせない。

 どういうことか。中国革命がめざす目標の達成までには長い「過渡期」を歩むことを必然とするということと、その「過渡期」においてさまざまな発展段階を踏みながら前に進んでいくという基本的な視座と視界が求められるということである。

 さらに、忘れてはならないのは、「共同富裕」を掲げたこの時点からすでに私有制(非公有制)と公有制の矛盾をどう解決していくのかという、社会主義を深化させていくうえで根本にかかわる問題をはらんで、試行錯誤と紆余曲折を重ねながら、現在まで歩みを進めてきたということである。

 重ねてだが、「共同富裕」は、あれこれの便宜的な政策として掲げられて来たのではない。社会主義の根幹をなすものとして一貫して追求し続けた命題としてあるのだということである。この認識は、中国で現在起きていること、さらに将来起きることの理解、認識にとって欠くことのできない重要なものである。

 と、「共同富裕」について思考をめぐらせている時、日ごろから尊敬の念を抱いている日中経済界の大先達から電話をいただいた。

 「『第三の道』ってご存じですよね。どう思いますか…」

 「アンソニー・ギデンズの『第三の道』ですね。評価はさまざまですが、サッチャーリズムに疲れた英国がもう少し穏健な資本主義のあり方を歩むことを提起したと言ってもいいのではないでしょうか。それが保守党から労働党への政権交代の動力にもつながったということじゃないでしょうか」

「資本主義が行き詰っている今こそ、日本のみならず、世界にとって、新しい『第三の道』が必要になっている時代ではないですかね。習近平が掲げる『共同富裕』にその可能性を感じるのですが…」

 「まったく同感です!」

 長い交感と会話のほんのさわりだけだが、こうしたやり取りになった。そして「第三の道」という言葉にハッとさせられた。事実関係に厳密さを求めるなら、「サッチャーリズムに疲れた」というのは強引な自己流の解釈であることは言うまでもない。しかし、21世紀を前にして英国で「第三の道」が話題になった折、英語の論文などまともに読みこなせない語学力も顧みず、英国出張の後輩に頼んで書店で買い求めてもらったこととともに、「第三の道」という言葉の持つ力をあらためて思い起こしたのだった。

 中国が、いま、この段階で「共同富裕」を高く掲げる意味を、われわれは誤りなく知る必要がある。それが習近平氏の掲げる「新時代の中国の特色ある社会主義」の意味を過不足なく理解する、すなわち、隣人中国のいまとこれからを知るカギとなるのだ。

 貧しさを共有するのが社会主義ではないという問題意識に立って鄧小平氏が主導した大胆な改革開放と市場経済を突っ走ってきて、「小康社会」の実現、つまり絶対的貧困の克服まではたどり着いたが、格差の拡大をはじめその間に積み重なった数々の社会矛盾の解決に向かって、新たな社会主義をめざす段階に立ち至ったという、歴史的な段階認識にあるということである。中国を理解する上での「過程」と「段階」の認識の重要性というのはこういうことである。

 そして、新たな社会主義という時、新中国成立後72年という時間を踏まえれば、中国革命の何たるかも知らずに生まれ、「豊かさの時代」に育った世代が人口の過半を占め始めているであろうという現状が極めて重く中国社会にのしかかる。つまり「共同富裕」というのは経済政策における「分配論」といった領域を超えて、人間の価値観や思考の「リカレント」(学び直しの循環)を避けて通れないのである。人間の意識改造という大変な難事業とならざるをえないのだ。こうした文脈で、いま中国で起きていることを読み解いていけば、すべての脈絡、連関が見えてくる。

 さらに、中国の「共同富裕」をめざす試行錯誤は、まさしく、いま行き詰まりを見せているグローバル化した資本主義、すなわち新自由主義のもとで金融とITの極限まで肥大化した「欲望の資本主義」の矛盾を打ち破る新たな経済・社会システムへの示唆につながるはずだということである。とりわけ中国がこれから全力を挙げて取り組むことになる公有制と非公有制経済の均衡のとれた発展というのは前人未到の現代的課題として存在している。

 論の当否の吟味は厳しくあらねばならないが、一例を挙げるならば、60年代の「構造改革」派を代表した長洲一二、力石定一氏らが提唱した「私的セクターと公的セクター」論あるいは「ヘゲモニー」論にも通底する現代資本主義と現代社会主義の交錯する経済・社会システム像が浮かび上がってくる。問題は、そこで、階級矛盾の止揚という資本主義社会の根本矛盾の「解」を見出せるかどうかということになる。さらに、その新たな経済・社会システムが倫理性という、経済のあり方にとってある時は「高いハードル」となる課題についても明確な「解」を示せるかということである。

 このように、「第三の道」というキィーワードに触発されて思考を重ねていくと、中国が挑む新たな段階の社会主義像の象徴としての「共同富裕」は、われわれがいま抱える問題克服への道を指し示す可能性を大きく秘めていることが見えてくる。

時代は新たな視角と視界を求めている。現代の新たな社会主義をめざして歩む「過渡期」の中国から目が離せない時が続く。

 (文・木村知義)


【筆者】木村知義(きむら ともよし)、1948年生。1970年NHK入社。アナウンサーとして主に報道、情報番組を担当。1999年から2008年3月まで「ラジオあさいちばん」(ラジオ第一放送)のアンカーを務める。同時にアジアをテーマにした特集番組の企画、制作に取り組む。退社後は個人研究所「21世紀社会動態研究所」で「北東アジア動態研究会」を主宰。