覧古考新、日本の行くべき道を考える 

2025/01/28 07:30

新しい年2025年が明けた。

世界はまさに激動の只中にある。本稿の筆を執ろうとした矢先、「ガザ地区でイスラエルとハマス停戦合意」と速報が流れた。ただし、スペインのテレビ局TVEは「停戦合意」を報じながら「この24時間でイスラエルの爆撃によってパレスチナ人70人が死亡」と伝えた。中東情勢に通じたジャーナリストのなかには、「ヨルダン川西岸地区」での暴力的な入植はじめ、イスラエルのパレスチナ人「殲滅」の意志は変わることはないとする「見立て」もある。楽観、予断を許さない状況であることは知っておかねばなるまい。そして米国では、世界注視の中で、トランプ第二期政権がスタートする。一方、日本のわれわれは「戦後80年」を迎え、あらためて歴史との向き合い方を問われることになる。ゆえに、戦後日本のありように真摯に向き合い、未来に向けて、確たる視角、発想をもって時代に立ち向かう一人としてあらねばと年頭の思いを強くする。そのことを胸に、本稿では少しく時代を振り返りながら問題意識の一端を記してみたい。

1972年2月、米国のニクソン大統領が中国を訪問、「米中共同宣言」(上海コミュニケ)を発表した。言うまでもなく、前年のキッシンジャー大統領補佐官の「秘密裏」の中国訪問によって切り拓かれた「米中新時代」への幕開けであった。一方、日本は米国追従を崩すことなく「中国敵視政策」に立つ佐藤栄作首相の政権末期であった。この年、「中央公論」5月号に一つの「論稿」が掲載された。「佐藤外交はそもそも外交理念と体系的政策を持たなかった」と舌鋒鋭く批判するその稿の掲題は「ワシントンから見た佐藤外交の醜態」となっていた。筆者は一人の新聞記者であった。「密使キッシンジャー博士の二度の北京入りで、世紀のドラマ、ニクソン訪中が実現し、米中両国の国論を大転換させ、世界の力のバランスを変えた」と語り、佐藤外交は「とても多極化時代の交渉を有効に進めうるものではなかった」と厳しく喝破するものであった。

この「稿」が世に出てほどなく、6月17日、佐藤首相は退陣を表明。昼過ぎ首相官邸で記者会見に臨んだ。「テレビカメラはどこかね。…新聞記者の諸君とは話をしない…」と述べたことで新聞記者は全員会見場から退出。佐藤首相がただ一人テレビカメラに向かって語る孤独な会見が中継されるという、永く語り継がれる政権の退陣劇となった。その後政権を継いだ田中角栄首相によって日中国交正常化へと歴史は大きく動くことになる。

この「稿」の筆を執った記者の名は渡邉恒雄。昨年末98歳で世を去った読売新聞グループの総帥にして日本のメディア界の「ドン」とさえいわれ君臨した「ナベツネ」、その人である。石破首相はその逝去に際して「偉大なジャーナリストだった」と死を悼んだ。石破氏が、かつて「ナベツネ」がこの「稿」をものしたことを知っていたかどうか、寡聞にして知らぬ。しかし、その如何にかかわらず、今まさに石破首相自身が「外交理念」とそこにかかわる「体系的な政策」を鋭く問われている事は知っておく必要があるだろう。石破氏が総裁選を闘うにあたって米ハドソン研究所に寄稿した論考で「アジア版NATO」を唱えたこと、米国の安全保障関係者によってにべもなく否定され、政権の座に就いてこの「構想」を封印したことはすでに知られたことであるが復習しておく。

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