透き通る秋空を背景に聳える巨大な岩塊とその直下を深い翠の透明な流れに思わず目を奪われた。ユーモアあふれる船頭のガイドに笑い声が起こり、投げ入れた餌を狙って水面を小魚が飛び交う。晩秋の週末、初めて武夷山を訪れた。独特な山の存在感と中国随一の美しさを誇る九曲渓を眺め、豊かな自然に育まれた茶の世界にひたることでその世界遺産たるゆえんを肌身で実感できた。
武夷の象徴ともいうべき大王峰山麓のホテルに到着後すぐに武夷山名物の九曲筏下りに出かけてみた。深い翠の穏やかな清流を竹を組んだ筏が次から次に下っていく。抜けるような青空の下、左右には屹立した赤茶色の絶壁が展開する。乗船前に買った魚の餌を投げ込むと一斉に小魚が群れをなして食らいつく。次々と現れる奇岩の解説を聞きながら、秋の昼下がりの長閑な時間が過ぎていく。緩やかな川の流れに身をゆだねていると、都会暮らしで溜まった心労も清水に溶け込んでいくような気がした。
下船後、知人の経営する茶室に招かれた。知人は茶栽培から茶の販売までを手掛けるいわばお茶のプロである。紅茶の起源はこの武夷の岩茶だ、などと武夷山の茶に関する彼の蘊蓄に耳を傾けながら、武夷の岩肌に根を張るという大紅袍なる高級ブランド茶をご馳走になった。一見紅茶にも似た武夷の岩茶は、口に含んだ瞬間、独特な渋みや甘みがほんのり広がった。武夷山市内だけでも三百を超える製茶場があるといい、中には茶の博物館や宿泊施設なども備えた大規模なものまである。街中至る所に茶の販売店が立ち並び、武夷山はまさに茶の街であった。
翌朝、妻をホテルに残して、武夷山を代表する天游峰に登ってみた。早朝の天游峰には私以外はだれもおらず、静かな山歩きを楽しむことができた。とりわけ「晒布岩」という黒々とした巨大な一枚岩は圧倒的な存在感を放っていた。その断崖絶壁に掘られた急峻な石段を登るのに一苦労したが、頂上からの眺望はひとしおであった。武夷山の山並みの風景が果てしなく続いていた。緑の海と陽光に光る岸壁、そしてその間を縫うように蛇行する九曲渓の流れ。火照った身体を吹き抜ける秋風が心地よかった。
その日の午後はかの有名な大紅袍の五つのお茶の原木を見学するおよそ五㎞のコースを水帘洞まで妻と歩いた。山全体に茶畑が散在し、稜線にほど近い岩塊に囲まれた狭隘な土地にさえ、茶畑があるのには驚いた。途中突如として現れた純白な茶の花とそれが発する芳醇な香りが充満する茶畑は幻想的でさえあった。
その夜、武夷山の〝山・水・茶〟を主題とした张艺谋演出による迫力ある舞台を鑑賞した。あいにくの小雨模様ではあったが週末の夜とあって満席だった。内心ありきたりの舞台だろうと高をくくっていたが、最初から度肝を抜かれた。なんと約二千席もある座席自体が三六〇度、反時計回りに回転し始めたのだ。おかげでそれぞれの舞台で展開する異なる全ての演目を正面を向いたままで鑑賞できた。加えて迫力ある音響と幻想的な色彩、そして数百人ものエキストラによる壮大な演舞。とりわけライトアップされて漆黒の夜空に淡紅色に浮かびあがる大王峰の存在感は圧巻だった。武夷山の幻想の世界にどっぷり浸ることができた大満足の舞台であった。
最終日の朝。武夷宮から止々庵という道教のお寺まで川沿いを歩いてみた。大王峰に見守られながら、道の両側には長い年月を感じる味わい深い盆栽が並んでいた。すぐ左を流れる九曲渓を続々と筏が下り、その横では昨晩食した紅眼将軍魚という魚の異常なほどの群れが餌を求めてうごめいていた。
短い武夷山の旅であったが、印象深かったのは武夷山と朱子との関係である。十四歳から無くなる七十一歳までの五十七年間をここで過ごし、学究と教育にあけくれたという。その清廉潔白性が武夷山の自然と重なり、彼の理気論に基づく壮大な儒教コスモロジーがこの千変万化する美しい自然によってインスピレーションを付与されたのではないかと思った。天游峰直下には朱子が学究と教育にあけくれたという武夷精舎が再建されている。それを取り囲む自然は昔も今も変わりないが、内外から訪れる観光客の喧騒で往時の深山幽谷の静寂はもうそこにはない。
かつて朱子は理気論による儒教再構築の過程で「天人合一」を説いた。武夷の山に身を置き、清らかな九曲渓を見つめ、岩茶を味わったことで、朱子が感じたであろう人と自然の絶妙な調和を実感できたような気がした。武夷の山、水、そして茶と朱子学が私の中で一つに結び付き、中国の自然と文化と歴史の多様性と奥深さに改めて気づかされた旅となった。
(文・ 松村浩二)
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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。
(中国経済新聞)