紫陽花と高考の季節

2025/07/8 07:30

梅雨が始まった上海。ぐずついた天気の続く憂鬱な季節だが、雨にそぼ濡れた満開の紫陽花が心を和ませてくれる。先日、花屋で買った鮮やかな紫の株は灰色がかった雨空を背景によけいに映えて見える。

 日本では梅雨の話題でもちきりになる6月だが、毎年この時期になると上海、いや中国全土がある独特な緊張感に包まれる。高考(ガオカオ)である。

 高考とは毎年6月初旬に実施される中国の大学入試で、正式には「普通高等学校招生全国統一考試」という。ちなみに「普通高等学校」は中国では大学を意味する。今年は6月7日~9日(所によっては10日)の3日間での実施となった。試験期間中は日々リアルタイムで受験生の入退場や保護者や教師たちが見守る様子がニュースで報道される。それに加えて、試験当日の緊張した面持ちで試験会場に出入りする受験生や彼らを不安げに見守る保護者や教師の姿を伝える映像でSNSはあふれかえる。さらに試験終了直後からは合格指南や就職をふまえた学校選びのアドバイスが一斉に発信され始める。

今年の受験生総数は1335万人に上り、全国の7899の試験会場で実施された。彼らをおよそ1300の大学(3割未満の私立と約7割の国立)が受け入れる。そのうち「一流大学」とされる211(21世紀へ向けた重点大学)が112校、さらには「名門大学」とされる985(1998年5月に選ばれた最重要大学群)が39校。211の合格率は5%前後、985の合格率は1・5~1・8%とされ、極めて狭き門である。何よりも合否結果がその後の人生設計に多大な影響をもたらすだけあって、本人のみならず家族も教師も皆必死だ。いい大学を出て、いい会社に就職し、いい生活をするという発想は中国では今でもきわめて根強い。

 今年の高考は「百年難遇(百年に一度の難関)」とも言われた。膨大な受験者数、「新高考」という新たな試験と採点方式の採用、そして「内巻(競争)」の激烈化がその背景にある。上海の受験者数は6万人超で、1番多いのは河南省の約140万人とされた。

人生を決める高考ゆえ、そのハードさは言うまでもない。それは高校の教室の机にうず高く積まれた教科書やプリントの量で一目瞭然だ。テスト回数も多く、宿題の量も半端ない。昨今、「内巻」という受験過当競争が社会問題となっていることは周知の通りである。また、「学区房」という有名校周辺の不動産物件の人気は高く、少しでも子供の通学の負担を減らし、学習に専念できるようにという親心がその背景にある。まさに「孟母三遷」の現代版だ。

 日本とは異なる中国の高考だが、その起源は「科挙」にあるとされる。6世紀に隋の文帝が始めたとされる科挙は、身分出自に関係なく、能力のある人材を採用する官吏登用試験であった。その難易度はきわめて高く、「千人に一人」とまで言われていた。後に唐の玄宗皇帝は合格者を中央政権にまで登用した。そして、宋代になると儒教経典をもとにした試験制度が整備され、「郷試(各省)・会試(中央政権)・殿試(皇帝)」の三段階方式が確立し、読書人としての試験として確立する。そのため受験者を故郷の親族一同が支え、合格を願った。 1300年続いた科挙制度だが、近代化の波に押し切られ、1905年、光緒帝の勅命により廃止される。しかし、各地方に行くと、こうした科挙合格者たち(挙人)は今でも顕彰され、敬愛の念をもって語り継がれている。挙人はいわば地方の誇りであり、人々の未来でもあったのだ。

 上海の学校周辺の壁に描かれた孔子とその弟子たちの姿と、「学而不思則罔、思而不学則殆。」などの文言をしばしば目にする。人工知能開発が飛躍的に進み、社会のデジタル化が急速に進む今後の中国社会を支えるのは、まさに「学と思」を駆使できる彼ら若者たちであることは間違いない。

 紫陽花が咲き乱れる6月だが、高考に挑む中国の若者たちにはそれを愛でる余裕などない。だが、彼らひとり一人の思いや未来への不安や希望、決断や迷いを代弁するかのように紫陽花の色鮮やかな花弁のひとつ一つが雨露に濡れている。と同時に、人生を左右する舞台で未来の扉をこじ開けようとする最愛の我が子の姿を深く強い愛情で静かに見守る父母の姿が、「強い愛情」という花言葉をもつ紫陽花と重なって見える。

 紫陽花の6月は高考の季節(とき)なのである。

(文・ 松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。