ワンタンと上海語

2025/12/23 08:30

ある晩秋の日曜日の夕方、妻のワンタン作りを手伝った。

 縦横十センチ四方の小麦粉の薄い皮に胡麻油や塩で味付けした豚肉、チンゲンサイのみじん切りを練りこんだ具をスプーン一匙分、皮に乗せる。問題はその次だ。それを二つ折りにして生地の右下端に指先で水をつけ、左右の端を手前に曲げながら最後に生地の一部を重ねると完成する。だが不器用な私のワンタンは全て不細工な形になってしまった。妻に冷やかされたが、お腹に入れば一緒と子供じみた言い訳しか返すことが出来なかった。

 実はその前日、『菜肉餛飩』(野菜肉ワンタン)という上海を舞台にした映画を観ていた。上海のある家族の物語を描いたもので、出演者のほぼ全員が上海出身であった。映画のロケになった人民公園の「相親角(縁結びコーナー)」や還暦前後の人々の日常生活が描かれ、鑑賞中はあたかも自分が登場人物の一人になったかのような錯覚さえ抱いた。

飛び交う上海語のセリフを聞きながら上海語との出会いを思い出していた。26年前に上海に来た当初、上海語には大いに戸惑った。大学時代にかじった程度の中国語(標準語)が全く通じない。家庭で飛び交うのは耳慣れない上海語のみ。知人の結婚式や誕生会、大晦日の親族との年夜飯では「ただ一人」会話に入れず、ひたすら笑顔でやり過ごしたものだ。当時、上海語は私にとってストレスでしかなかった。

 そんな中、私が最初に覚えたのは「パラピンシャンリ」という上海語だ。全く分からなかったこの言葉だが、義母がこの言葉を発するたびに冷蔵庫を開けて食品を中に入れるのに気づき、それが「放在冷箱里(冷蔵庫に入れる)」だと分かった時は心底嬉しかった。

 当時、何かとお世話になった上海の友人からは変な上海語を教えてもらった。覚えたてのその言葉を私が言うたびに大笑いしていた彼が懐かしい。道を示す言葉も早く覚えた。今のように配車アプリがない時代、流しのタクシーを捕まえて、運転手に行先と道順を伝えなければならなかったのだ。直進が「イザケ」(一直開)、右へが「ショツウェイ」(小転弯)、左へが「ドゥツウェイ」(大転弯)など。下手な発音ゆえすぐに外国人とばれたが、意外にもしばしば上海語を褒められもした。

 さて、小さな漁村だった上海が劇的に発展したのは1843年の対外開港場指定以降で、浙江省、江蘇省などからの移住者及び国内外との商売が上海語の進化を促したとされる。上海人が良く使う「阿拉(アラ=私たち)」という言葉は寧波語由来だし、「巧克力(チョコレート)」や「咖啡(コーヒー)、「沙発(ソファー)」などの外来語の成立も外国文化との交流から生まれた造語である。上海語は異文化交流を通じて成長発展していった言語なのである。

 そんな上海語だが、1980年代後半、公共の場での標準語の使用が優先され、若年層の上海語能力は低下し続ける。普通語教育が中国全土で定着したことで、地域文化保護の観点から上海語教育も見直されるようになっているが、高齢者と若年層との間にある上海語の言語的隔たりは明らかで、今後の上海語の継承は余談を許さない。

 話を映画に戻そう。亡き妻への思いを断ち切れない定年後一人暮らしをする男性が毎週自分の様子を見に帰宅する息子のために手作りするワンタンには彼の様々な思いが込められていた。9世紀に書かれた『資暇録』には「ワンタンは混沌とした形から来たもの」とある。様々な具材が混ざり合い、それが薄い皮で優しく包み込まれて絶妙な味わいを生み出すワンタン。それはあたかも古くから異文化が混ざり合いながら成長していった上海という都市を象徴するに絶妙な食なのかもしれない。多様な民族、言語、文化、風俗が混ざり合う上海。この多様性と包摂性こそが常に新しいものを創造し、交流と共生の中で人々は豊かな暮らしを生きている。

 自作の不細工なワンタンを口に頬張ると妻が言った。子供時分は週末の休日には決まって家族でワンタンを作り、出来立てのワンタンが冷めないうちに近所におすそ分けしたものだった。一杯のワンタンが家族や近隣住民との絆をつないでくれたのだ、と。

 ワンタンには具材だけでなく作り手の思いも包まれている。ワンタンは上海の古き良き人情を思い出させてくれる上海の思い出の味なのである。最後に今年もありがとうございました。そして来年もまた宜しくお願い致します。「シャシャノン(謝謝你),ツェウェイ(再見)」!

(文・ 松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。