旅行者の天国、居住者の籠

2026/04/24 19:30

杭州から東京へ渡り起業した張さんは、日本での事業を諦め、帰国する決心をした。私のオフィスを訪れた彼は、別れの挨拶としてこう言った。

 「日本は旅行者にとっての天国だが、住む者にとっては籠(かご)である。」

 日本で2年半暮らした張さんは、複雑な感情を滲ませながらこの言葉を口にした。彼は日本の清潔さ、安全、秩序を愛していたが、同時に目に見えない圧迫感も感じていたという。それはまるで、仕立ては素晴らしいがサイズがわずかに小さいスーツを着ているようなもの。見た目は立派だが、いかなる動作も制限されてしまう。

 張さん曰く、日本で生活していると、この社会には「二つのルール」が存在することに気づくという。

 第一のルール:明文化されたもの。法律、条例、店内の掲示、地下鉄のアナウンス。これらは目に映り、理解でき、従えば済む。

 第二のルール:目に見えないもの。誰も教えてはくれないが、日本人は皆それを知っており、黙って守っている。

 例えば、電車の中で友人と隣り合わせになり、小声で会話することは許容されるが、携帯電話で大声で話せば、周囲から冷ややかな視線を浴びる。誰も注意はしないが、その「沈黙の圧力」は、どんな言葉よりも力を持っている。

例えば、コンビニで支払う際、一万円札しかないときに日本人は習慣的に「すみません、大きいのしかなくて」と一言添える。これはレジの店員への気遣いを示すマナーだ。そんな規定はどこにもないが、それをしないことは、日本人から見れば「他者への配慮に欠ける失礼な行為」と映る。これこそが日本社会の「空気」ーー目に見えないルール。

 そして、日本語がまだ不自由な外国人にとって、これらを察することは至難の業だ。

 私は張さんの悩みをある日本人に話してみた。すると、彼はこう答えた。

 「街がきれいなのは誰かが掃除しているからで、電車が静かなのは皆が静かにしているからだ。その恩恵を享受しながら、自分だけは例外でありたいと願うのは、論理的に筋が通らない。」

 この言葉は少し突き放すように聞こえるが、真実を突いている。

 日本の秩序は、天から降ってきたものでも、政府が強制したものでもない。それは数千万人が一分一秒、自己を律し続けることで積み上げてきた「集団の成果」だ。列に並ぶ、声を潜める、ゴミを捨てない、公共の場で大声で通話しない。これらの一つひとつは、誰かが自分の利便性を少しずつ犠牲にして、全員が共有する快適な環境を支えている。

 だからこそ、部外者が「このルールは息苦しい」と言うとき、日本人の反応は往々にしてこうなる。

 「ルールによるメリットは享受しているのに、ルールが課す義務は負いたくないというのは、フェアではない。」

 この論理は、確かに成立していると私は思う。

 しかし、その一方で、別の問題も厳然として存在する。日本の「目に見えないルール」が、常に合理的で守るに値するものとは限らない。

 日本社会には強烈な「同調圧力」が存在する。個に対して集団との一致を強いる見えない圧力だ。就職活動では、新卒生が皆同じような黒いスーツを着て面接に臨む。職場では、制度に明らかな欠陥があっても、異議を唱える人はほとんどいない。政治においても、選挙のたびに候補者が「改革」を叫ぶが、当選後は何も変わらない。有権者もそれを分かっており、抗議も期待もしない。日本はおそらく、制度の変革が最も難しい国の一つだろう。変化を求める声は、同調圧力の中で静かにかき消されていく。

張さんは言った。

 「日本は極めて従順な国民を育て上げた。それは表面的な調和を保つ上では有効だが、創造性を抑圧し、社会の自己更新能力を遅らせている。異論を奨励しない社会は、平穏な外見の下で、行き場のない鬱屈を溜め込んでいる。」

 私は、日本は天国でもなければ籠でもない、と考えている。それは無数の細やかな「自己抑制」によって築き上げられた社会だ。「目に見えないルール」は、幾世代にもわたって積み重なってきた集団の契約であり、それが秩序を守ると同時に、個性を押し潰し、安全を創り出すと同時に、沈黙を生み出している。新しくやってきた外国人にとって、それが賞賛の対象であると同時に、息の詰まるものでもあるというのは、非常に理解できる話だ。

 私は張さんに伝えた。

 「日本が自由で住みやすい国かどうかは、人による。もし自由を『何をしてもよく、何にも縛られないこと』だと定義するなら、日本は息苦しい場所だろう。しかし、もし自由を『予測可能な秩序の中で、不慮の事態を恐れずに安心して暮らせること』だと定義するなら、日本は世界で最もその自由に近い場所の一つかもしれない。」

 彼は少し笑って、こう言った。

 「あいにく、私にはこの社会は合わなかったようだ。」

(徐静波)

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【筆者】徐静波、中国浙江省生まれ。1992年来日、東海大学大学院に留学。2000年、アジア通信社を設立、代表取締役社長に就任。翌年、「中国経済新聞」を創刊。2009年、中国語ニュースサイト「日本新聞網」を創刊。1997年から連続23年間、中国共産党全国大会、全人代を取材。2020年、日本政府から感謝状を贈られた。

 講演暦:経団連、日本商工会議所など。著書『株式会社中華人民共和国』、『2023年の中国』、『静観日本』、『日本人の活法』など。訳書『一勝九敗』(柳井正氏著)など多数。

 日本記者クラブ会員。