パンドラの箱が開いた!激動の2025年を送る

2025/12/24 11:55

世界大乱、激動の2025年が暮れようとしている。

 物事の本質、本態が顕わになってなにもかもが鮮明になる。そんな奇妙な感覚で年の暮れを迎えている。言うまでもなく「高市発言」によって引き起こされたあれこれを前にした感慨である。

 中国による「ナラティブ」という口吻がメディアを賑わす。「情報戦」「認知戦」も同様、喧しいかぎりである。曰く、「正しいと思うことだけを言うだけでは中国とは向き合えない」と中国研究者は高市氏を諭す。「中国政府が意図を持って特定のナラティブ(物語)を発信しているのに対し、日本は国益を損なわないため、独自のナラティブを戦略的に生み出す必要がある」と得意然と説く。また、「中国は(国内の)言論統制を強化しながら、(外国に対して)プロパガンダを打ち出すことが上手になってきている。米国ですら日本の立場をサポートしているようには見えない」、さらに「中国は日本社会の分断を狙っている」と言うに至っては言葉を失うばかりである。言葉を失うのはこればかりではない。「中国は、自身が唯一の合法政府で台湾は自国の一部だと言い続けていますが、『一つの中国』原則を守れという言い方は1980年代末からです」はたまた、「習氏は台湾関連の実務を担い、働きが認められて昇進しました。最高指導者になり、ライフワークとして台湾を中国の主権下に置きたいと考えているのは間違いないでしょう」と、こもごも、得意げに語る中国専門家。「戦前」「戦中」の困難を経て営々と重ねられた日本の中国研究の奥深い伝統と系譜はすでに失われて久しいのかもしれない。

 メディアも同様である。「『一つの中国』日本は認めている?解釈の違い、日中対立の根底に」。問題が国連の場に持ち出されたことをもって「旧敵国条項は有効か、95年国連決議で『死文化』、中ロは対日圧力に利用」、さらに「サンフランシスコ条約、中国なぜ無効主張 日本の孤立狙う戦勝国外交」というのである。時流への阿りばかりが顕わとなる「問い」の設定である。そう思うこと自体が「中国のナラティブ」に「洗脳されている」ことで「日本の社会の分断」そのものとなるのか、イヤハヤ恐れ入るというしかない。どこに「実事求是」を求めるべきか、事実に基づいて語るのがジャーナリストという認識は、この国では「ないものねだり」ということになるのか。最早、寄る辺なき日本の言論空間などと嘆くと、これまた中国の「認知戦」に毒されているという誹りを受けるのだろうか。中国を専らとするジャーナリストもまた、すでに「昔語り」の世界なのかもしれない。余談だが、ここに引いたメディアの「問い」(課題設定)に各々どのような「答え」を提出するのか、それに応えることができてこそ、日本の行く道が確たるものになると言うべきであろう。

 こうして考えてくると、皮肉なことに、「高市発言」はなかなかの妙と言うべきと思えてくる。本来、度し難いことであるはずのものにも幾ばくかの「功」ありというわけか。冒頭に記したように、あらゆる事物、人間のことごとく、その本質を顕わにしてしまう。しかし、だからといって看過して良しとはならない。批判されるべき高市氏の「両岸関係」への認識を含む「中国観」の問題性についてはすでに先月触れたので繰り返さない。だが、一つ言を重ねるならば、日中国交正常化に至る葛藤と苦難における先達への、それこそ「高市好み」の口吻に依れば、「尊崇の念」を忘れた高市氏のありようを、とてもではないが真正保守とは言い難い。田中角栄、大平正芳の両氏は言うまでもなく、党派、領域を超えて、まさに身命を賭して日中関係と日本の行く道を拓いた赫々たる先達が日本にはいた。時代は後になるが、日中平和友好条約の締結に一身を賭した外相、園田直氏がその出立の朝、「家中に響き渡る雄たけびとともに冷水に満たされた風呂から飛び出て、清めた身体で、日中平和友好条約の調印に向かった。園田はまさに死を賭した覚悟だった」と、園田天光光夫人から聴いたことを思い起こす。しかし、米原子力空母「ジョージ・ワシントン」艦上で、トランプ氏の横で飛び跳ねて喜ぶ、浅薄そのもとしか言えない姿を恥じることのない高市氏には、いま、このようなことを言っても詮無いことかもしれない。 さらに、もう一つ加えるなら、高市氏は安倍晋三氏の衣鉢を継ぐことを再三再四力説するが、エピゴーネン(亜流)はどれほど逆立ちしてもオリジナル(祖)を越えることはない。この冷厳な戒めを肝に銘じる必要がある。

 しかし、そうしたすべてを含めて、「高市発言」はまさしくパンドラの箱を開けたと言える。すなわち、「高市発言」は、言うところの「台湾有事」「存立危機事態」にまつわるあれこれにとどまらず、戦後世界のありよう、サンフランシスコ体制の下米国への自発的隷従にいそしんで歩んだ日本の「行き方」を根底から見つめ直すことを迫られるという意味で、まさしく忘れられていた戦後世界の始点に立ち戻って物事を考え、事態を見つめ直すことを避けて通れないことをわれわれに知らしめたのである。これまで「曖昧」のなかを生きて、時には「封印」までしてきたあらゆるものの本質が顕わになり、すべてにわたって真贋がくっきりと見え、旗幟鮮明に立つことを迫られる契機となった。そして、時代が変わるとはこういうことだと身に沁みて知らされる。

 「世界は変わる」と説き続けてきた本欄だが、いまさらながら、世界と時代の大きな転換点に立っていることを実感する。突き詰めて言えば、真の「21世紀世界」への「とば口」に立っているという実感である。言うまでもなく、実時間としては21世紀に入って四半世紀が過ぎようとしている。しかし、依然、地球上では戦火と争闘が渦巻き、対立と脅威が重く世界を覆う。すなわち「冷戦思考」から自由になれない世界が続いているという意味で、依然として「20世紀世界」を引きずったままの現在と言うべきである。

 翻って考えれば、いま起きていることは既存の世界秩序の溶解の進行を意味することにほかならない。新たな世界秩序に向けての、まさぐるような葛藤、試行錯誤の日々となっているとも言えよう。「トランプの米国」では米中二大国による「G2」が語られる。究極の選択で言えば、トランプ氏の「MAGA」VS習近平氏の「人類運命共同体」の対決と言うことになる。さらに「G7」の限界から米中露にインド、日本を加えた「C5」(コア・ファイブ)という言葉まで登場したと伝えられる。まさに、事態は動いている。時には暴力的とも言える「創造的破壊」の真っ只中にあると言っても過言ではない。すなわち、もはや、われわれが生きる現在の世界の姿を所与のものとしていてはならないということである。変えること、変わることを恐れてはならないという語りかけが胸の奥底に重く響く。そんな思いを強くしながら、目の前の混沌と向き合い年を越すことになった。  この歴史的転換の大きなうねりの中に身を置きながら、「新たな世紀の世界」への「とば口」に立つ2026年を迎えようとしている、そんな感慨を深くするのである。(12月17日記)

***********************************

(文・木村知義)

【筆者】木村知義(きむら ともよし)、1948年生。1970年NHK入社。アナウンサーとして主に報道、情報番組を担当。1999年から2008年3月まで「ラジオあさいちばん」(ラジオ第一放送)のアンカーを務める。同時にアジアをテーマにした特集番組の企画、制作に取り組む。退社後は個人研究所「21世紀社会動態研究所」で「北東アジア動態研究会」を主宰。