映画「ナタ2」で監督の餃子氏がエンディングのスペシャルサンクスにある人物の名を表示した。それは中国アニメ界の父、万籟鳴である。しかし中国人の多くはその名を知らない。
清朝末期だった1900年に江蘇省南京で生まれた万籟鳴は、幼少期から絵が好きで、20歳を過ぎたころに伍連徳と合作で雑誌「良友」を作成し、好評だった。しかし当時は映画が盛んになり、欧米やドイツのアニメがすぐに中国に上陸し、弾むような画面を初めて見た万籟鳴は大変驚き、いつか中国もアニメ映画が作れるのか、と思った。アニメ制作の技術が独占的で極秘だった当時、先進国もほとんど攻略できず、ほうほうの体だった若き万籟鳴は高給の仕事をかなぐり捨てて古蟾、超塵、涤寰の弟3人を呼び寄せた。後に「万氏四兄弟」と呼ばれた彼らはアニメの技術を研究しようと決意する。テストをする場所もなく、わずか7平方メートルの中二階を研究室とし、機器類を買うために一切節約し、夜通し絵を描き、撮影や現像をして上映した、失敗を重ねた。

万籟鳴の妻は、「万氏4兄弟」が活動できるように家財をすべてはたいた。失敗を繰り返した末、ようやく画面が動き出し、万籟鳴ははらはらと涙をこぼした。後に商務印書館の依頼で制作した短編作品「舒振東の中国語タイプライター」が中国で最初のアニメとなったのである。
1940年、アメリカのアニメ「白雪姫」を見た万籟鳴は、自分も中国伝統芸術を反映する作品を作るべきだと感じ、「孫悟空、三たび芭蕉扇を借る」をモチーフにして中国初の発声長編アニメ「鉄扇公主」を生み出した。この作品は日中戦争のさなかだった当時に上海の3か所の映画館で1か月間上映され、大盛況となり、戦火にあった中国人は誇りに感じるものだった。しかし戦争の中、万籟鳴も香港へ移住、映画会社で弟の古蟾とともに舞台係作をさせられて、アニメ生活も途絶えてしまった。
万籟鳴は新中国の発足後、上海の美術映画製作会社に入った。ディズニーのアニメが全世界に広まっていた当時、負けん気を感じ、中国の美的感覚を強く信じてチームのリーダーとして夜を徹して「大暴れ天宮」を描いた。当時、世界のアニメ作品はほぼすべて30分間だったが「大暴れ天宮」は112分に及ぶもので、そのすべてを手書きしたのである。

当時、3年にわたり自然災害に見舞われて食料不足だった中、20~30人が飢えをしのんで原稿を書き、万籟鳴は思い描いていた「斉天大聖」を入念に細かく描き、自身の理想に磨きをかけていった。1964年にようやく行われた試写会で、万籟鳴はスクリーンに出てきた颯爽とした姿の孫悟空を見て感無量となり、熱い涙をこぼした。「孫悟空、そして斉天大聖にやっと出会えた」と心の奥で感じたのである。「大暴れ天宮」は中国アニメ不朽の名作となった。フランスの「ルモンド」は、「中国の伝統芸術のスタイルを見事に表現しており、ディズニーではなし得ないものだ」と評した。中国アニメはこのころ全盛期となり、「哪吒鬧海」、「九色鹿」、「宝蓮灯」などが相次ぎ誕生した。

1981年、上海。「中国アニメの父」と呼ばれた万4兄弟。その一人万籟鳴(ワン・ライミン)に『あなたの作品を見て、アニメを志すようになったんです』と伝える 手塚治虫。
万籟鳴は1997年にこの世を去り、輝かしかった中国アニメの歴史もともに過去帳入りした。中国アニメに心から情熱を傾けていた職人たちも、めくるめく心の輝きを抱えてひっそりと姿を消した。それから30年近くが過ぎた今、沈黙していた中国アニメが徐々に台頭し始め、「ナタ2」が海外に上陸するという時代時を迎えたのである。
(中国経済新聞)