先ごろ上海でコンサートをした歌手の三浦祐太朗さんが12月17日午前、中国大使館にやってきた。
呉江浩大使は大使官邸で、祐太朗さんを前に「大学を卒業したばかりの1984年、日本の若者たち3000人が中国を訪問し、私も接待をした。山口百恵さんが来るとのうわさを聞いてみんな大喜びだった。その当時、中国の映画ファンや歌謡ファンから見て、お母さんは絶世の美人だった。ところがついに最後まで姿を見せなかった。さて、来なかった理由は何か」と尋ねた。
これに対して祐太朗さんは、当時の日付けを数えて大笑いし、こう言った。「私が生後4か月だったから」。
百恵さんと三浦友和さんの長男である祐太朗さんは、この話について率直に「残念だった」と言った。
当時から40年が過ぎ、乳飲み子だった祐太朗さんは歌手になり、大学を出たばかりで訪中団の接待をしていた若者は駐日大使となったのである。
中国では、1970年代末から80年代初めにかけて、たくさんの日本の映画やテレビドラマが伝わった。百恵さんと友和さんが出演した純愛ドラマ「赤い疑惑」は大ヒットし、中国中央テレビでは視聴率80%を記録した。また百恵さんの歌曲「ありがとう あなた」、「いい日旅立ち」なども街中のあちこちで耳にするようになった。
呉大使は、「中国では南から北まで、東から西まで、だれもがあなたのお母さんを知っている、文化交流の影響力の大きさがわかる」と語った。
祐太朗さんは今年11月2日、上海で自身初の海外公演を行った。会場には大勢の百恵さんのファンのほか、日本の音楽ファンも詰めかけ、ほぼ満席だった。
祐太朗さんは呉大使に、「一番感動したのは、母親の曲を歌った時にお客さんが日本語や中国語で一緒になって歌ってくれたこと。私の歌声をかき消すほどの声で、母親に対し、中国の皆さんに対し、ありがとうという気持ちが沸き起こった」と言った。
祐太朗さんはまた、恩師である谷村新司さんについても語ってくれた。
「子供のころよく家に遊びに行って、谷村さんに馬乗りになったこともあった。大きくなってからは歌い方を教わった。谷村さんは中国のミュージシャンがとても好きで、『二世代で中国とつながっていけるように、現地でコンサートをしてみたらどうか』と言ってくれた。残念ながら急に亡くなってしまったが」とのことだった。
谷村さんの旧知の友人である中国大使館の陳諍文化公使もこの面会に列席しており、「谷村さんは中国と非常に縁が深い。1981年に初めて中国公演をしてから、両国の文化交流活動に携わってきた。国交正常化から45年、また自身の芸能生活45年目であった2017年に私は、訪中記念コンサートの記者会見に同席した。また大使館の方で上海公演を協賛した」と語った。
谷村さんの告別式では呉大使が弔辞を表した。家族を代表して出席していた祐太朗さんは、遺影の前で初めて呉大使に出会った。
今回、大使館で祐太朗さんに再会した呉大使は、「中日両国の文化交流の拡大は、国民が互いに分かり合う上でとても大切だ。祐太朗さんの世代も、国民同士が友情を深められるよう努めてほしい」と述べた。
祐太朗さんは、「今回、コンサートで上海に来て、中国の発展を見て、中国の人たちの友情を感じ取った。谷村新司さんのように日中友好の懸け橋になり、歌声で友情の橋を築こうと決意した」と語った。
この面会には、百恵さんの元マネージャーである音楽界の大先輩、内藤光広さんも同席していた。あどけない少女だったころから歌謡界や映画界の大スターになるまで百恵さん付き添っていた内藤さんが今、改めて現場復帰して祐太朗さんのマネージャーになり、情熱やエネルギーを親子二代に傾けることになった。
内藤さんは、「百恵さんは中国では大人気だが、本人はまだ行ったことはない」と言った。
そこで私は「若い祐太朗さんが来年また中国で公演をするなら、両親も招待したらいいじゃないですか」と言った。
祐太朗さんは笑い、呉大使もうなずき、拍手が沸き起こった。
百恵さんが息子とともに中国を訪問。これが伝説でなくなる日はそう遠くないのではないか。
(文:中国経済新聞 編集長 徐静波)
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【筆者】徐静波、中国浙江省生まれ。1992年来日、東海大学大学院に留学。2000年、アジア通信社を設立。翌年、「中国経済新聞」を創刊。2009年、中国語ニュースサイト「日本新聞網」を創刊。1997年から連続23年間、中国共産党全国大会、全人代を取材。2020年、日本政府から感謝状を贈られた。
講演暦:経団連、日本商工会議所など。著書『株式会社中華人民共和国』、『2023年の中国』、『静観日本』、『日本人の活法』など。訳書『一勝九敗』(柳井正氏著)など多数。
日本記者クラブ会員。