フランス人の目から見た京都と西安

2024/01/16 14:30

数日前に京都に行き、ホテルで朝食をとっていた時に、中国の西安を観光してきたばかりというフランス人の夫婦に出会った。「東洋文化巡り」の2か所目として京都を訪れたという。

 2人は私が中国人だと知って急に元気を出し、椅子を動かして話し始めた。夫はオノレさんという名で、中国語も日本語も少し話すことができ、東洋文化を研究している大学教授だと言った。

 私は西安に対する印象を尋ねてみた。

 オノレさんは、「西安には歴史的に有名な寺院が多かったが、新しいものばかりで唐の文化が見当たらなかった」と言った。全体的に城壁以外は千年の古都という趣が味わえなかったと言うのである。街が近代化しすぎ、道路も乱れて長安のような碁盤の目のようではなく、「千年の古都」だが点はあるが面がなかった、と言った。

 城壁の上に立って「長安」を想像するしかなかった、と語った。

 私は、この教授の西安に対する「酷評」に驚いてしまった。ならば、京都に対する印象はどうか。

 オノレさんは「京都は幸いアメリカの爆撃を受けなかったが、バブル経済のころの都市づくりにやられてしまった」と言った。近代化を求めた大規模な街づくりは直ちにストップがかかったが、「千年の古都」という姿は破壊されてしまい、これが原因でユネスコに世界文化遺産への登録申請を却下されてしまったのだという。

 「幸い、多くの寺や古い街並みは守られて、街の形も1000年以上昔の造りをそのまま保っている。あちこちの通りを歩いても『千年の古都』の趣を今でも感じ取れる」と彼は言った。

 「京都は長安みたいで、点も面もある」と語った。

言葉を発しなかった私の気持ちをオノレさんは汲み取ったらしく、「あなた方アジア人がヨーロッパのイギリスやフランスを見るのと同じで、文化の発祥が誰でどこか、などは大した問題でない。大事なのはのちの人が、思い出や想像の中のヨーロッパ文化の面影をどこで見出せるのか、ということだ」と付け加えた。

この言葉に、私は考え込んでしまった。

 日本は西暦794年に首都を奈良から京都に移し、「平安京」と名付けた。当時の街づくりは完全に唐の首都だった長安(西京)と洛陽(東京)を真似たものであり、メインストリートの「烏丸通」を境目として、右京区は長安と、左京区は洛陽と同じ形にした。のちに発展したことで新たなエリアも随分と増えたが、全体のレイアウトは1000年経った今でも碁盤の目の形を保っている。

 これは、欧米人が「東洋文化」を探る際に、オリジナルでもない京都に行きたがる大きな理由なのではないか、と私は思った。

古都、それを守るのは難しく壊すのは簡単だ。京都には、都心部では建築物の高さは31メートル以内とし、保護エリアでは建築物の改築などを禁ずる、という条例がある。しかしこれらはいずれも後出しであり、なにしろ半世紀も前に改築を実行していて、それが地元人にとってつらい思い出となっているのである。

 唐の文化はシルクロード経由で日本に伝わった。その先は太平洋なので、結局この島国に根付いてしまい、これが理由で京都や奈良では二十一世紀になっても当時の文化のにおいを感じ取ることができるのである。国境など気にしなければ、心にも安らぎが生まれる。

西安や京都についてのオノレさんとの語らいで、ヨーロッパ人から見た「東洋文化」への観察やアングルを初めて耳にした。西安には少しがっかりした、と言うよりむしろ、中国の文化や古都を守るよう促してくれたことに感謝したい。西安もしかり、京都もしかりである。

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【筆者】徐静波、中国浙江省生まれ。1992年来日、東海大学大学院に留学。2000年、アジア通信社を設立。翌年、「中国経済新聞」を創刊。2009年、中国語ニュースサイト「日本新聞網」を創刊。1997年から連続23年間、中国共産党全国大会、全人代を取材。中国第十三回全国政治協商会議特別招聘代表。2020年、日本政府から感謝状を贈られた。

 講演暦:経団連、日本商工会議所など。著書『株式会社中華人民共和国』、『2023年の中国』、『静観日本』、『日本人の活法』など。訳書『一勝九敗』(柳井正氏著)など多数。

 日本記者クラブ会員。