ある酷暑の週末に日本の姉家族が上海に遊びに来た。日本からの親族の訪問は久方ぶりである。2泊3日の超短期の滞在のため、「これぞ上海!」というスポットを足早に見て回った。
上海到着日の午後に空港から直行したのは東方明珠塔である。なぜここを選んだかというと、浦東開発区で最初に完成し、昨年9月29日、開業30年目にしてなんと1億人の来客者数をの達成していたからである。また、息子の生まれたのとほぼ同時期の1995年に完成したことや、1999年からの私自身の上海在住期間とほぼ重複するなど浅からぬ縁を感じていたからだ。
上海随一の観光地の外灘(バンド)を訪れた誰もが目にするのが東方明珠塔である。高さ458メートルで、下から順に高さ90メートルにある直径50メートルの球体、高さ250メートルにある直径45メートルの球体、それに最上部の高さ350メートルにある直径14メートルの球体を中心に、全部で11個の球体から成る。中でも259メートルの足下を見下ろすガラス張りの高空観光回廊は今でも大人気スポットだ。

平日金曜日午後の遅い時間帯であるにも関わらず、チケット売り場から既に長蛇の列が並び小一時間ほど待ってやっとエレベーターに乗ることができた。高さ250メートルの真ん中の球体で降りると、館内は予想通りの大混雑。地方からの観光客に海外からの団体旅行客が入り混じり、足の踏み場もないほどだ。それでも頭越しに見える眼下の景色や、果てしなく広がる上海の街並みに姉家族は一様に驚嘆の声を上げていた。ガラス回廊から足下に見える地上の風景には恐怖すら覚えた。
興奮冷めやらぬ中、階下に降りて、上海歴史博物館を見学した。こちらもまた期待した以上で見どころ満載であった。1930年代から現代までの上海の街並みや暮らし、社会インフラの変化。何よりも時代ごとの暮らしぶりが忠実に再現されており、姉家族たちは先ほど眺望したばかりの中国経済の最先端とは真逆の旧上海の歴史に触れることができて感無量だったようだ。
その後、対岸の北外灘に移動し、遠洋賓館の27階にある回転式レストランで日没まで上海料理に舌鼓を打った後、クライマックスの外灘散策に繰り出した。和平飯店前から散策道に入るといつもの混雑ぶりである。黄浦江の夜空に明滅する浦東側の煌びやかなイルミネーション、浦西の石造りの重厚な旧銀行通りを交互に見ながら歩くと、黄浦江をぬける涼風で日中の酷暑がうそのようだ。姪の娘が「夢の世界のよう」と感想を漏らしたのが印象的である。
彼らが忙し気にスマホで撮影する姿を横目にこの30年を回想してみた。東方明珠塔が完成する前、外灘の浦東側は田畑の広がる土地で、「寧要浦西一張床、不要浦東一間房」(浦西のベッド一つ分が浦東の一軒分より価値がある)と揶揄されるほどの格差があり、賑やかでハイカラな浦西に住み慣れた上海人が抱く浦東への偏見はひどかった。
私が上海に来た1999年当初でも、すでに完成していた東方明珠塔と同年に完成したばかりの金茂ビルくらいが目立つ程度で、周辺一帯は未だ大規模な開発中で、むしろ殺風景でさえあった。無論、今のような瀟洒で高級なリバーサイドマンションなどあるはずもない。その後、2008年に森ビル(上海環球金融中心)と2017年に中国で最も高く、世界でも二番目に高い632メートルの上海タワー(上海中心)が完成する。その間、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博を経て、中国は日本を追い抜き世界第2位の経済大国へと成長していった。
私が上海で暮らして来たこの30年間で浦東には世界のランドマークとも評される高層ビルや高級マンションが建てられ、ニューヨークや香港にも引けを取らないほどの街に変貌し、今では中国の新興富裕層の憧れの地になった。そのような上海の劇的な変貌を見届け、今や上海のシンボルとなったのが東方明珠塔であることは言うまでもない。
この度の姉家族との短い交流は、家族の変化を顧みる機会ともなった。上海での暮らしに追われる内に甥や姪たちは成長して、いつしか家庭を持つ身になった。幼かった頃の彼らを思うとこの30年間の上海と家族の変化が重なり、感無量で言葉にならない。
今でこそ上海中心、森ビル、金茂ビルの陸家嘴3兄弟が衆目を集めるが、その完成直後から30年間ずっと上海の成長を見守ってきた東方明珠塔こそ、頼れる長男ともいうべきだろう。上海の次の30年を見守る東方明珠塔にあやかって、私も家族のこれからを温かく見守っていきたいものである。
(文・ 松村浩二)
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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。
(中国経済新聞)