恒大集団の創業者許家印氏の人物像

2022/04/26 16:15

 中国経済の隆盛を示す象徴であった恒大集団が経営困難に陥った。その創業者兼社長である許家印氏に、国際社会の目が注がれている。

 許氏とはどういった人物なのか。

 貧しい農家の息子として生まれた一方、120億元(約2113億円)の資産を持つ実業家でもあり、中国の労働模範者、十大慈善家、2005年のフォーチュン富豪ランキング11位、2005年のフォーブス中国慈善ランキング3位、などと数々の栄光を背負っている。トップを務めている恒大集団は中国不動産業界で堂々1位、16万人もの社員を抱える大企業である。

■出身は貧しい農家だった

 許氏は、1958年に河南省のある山あいの小さな村に生まれた。翌年に母親が病死し、祖母の手一つで育てられた。本人の話では、子供のころは大変貧しく、父親が大きな柳の木を切って市場で売っていたという。車1台分売ってもいくらも稼げず、祖母も自家醸造の酢を市場に持ち込んで売り、家計の足しにしていた。

 胸に一番深く残っていることは、よく蒸しパンを持って学校に行ったけれど、3日ともたずカビが生えてしまったことだという。

 苦しかった生活の中、学業への思いを捨てることはなく、むしろ「知識で運命を変える」という決心が固まった。親戚などの支えもあって懸命に勉学に励み、大学入試が再開された年に優秀な成績で武漢鋼鉄学院(現武漢科技大学)に合格した。

1982年、許氏は大学を卒業し、河南省の舞陽鋼鉄に勤務することになった。工場での10年間、一介の技術者から現場リーダー、そして工場長まで歴任し、政府の精錬部門より上級アナリストに認定された。

 1992年、許氏は鄧小平氏の「南巡講話」を聞いて新たな好機を感じ取り、改革開放の先頭にあった深センで会社を立ち上げた。

■盗んで学んだ14年

 起業を目指していた許氏にとって、工場長という肩書は十分なものであったが、まず人のために働いてチャンスを伺おうと決めた。1992年、馴染みのない深センを訪れ、30ページ以上に及ぶ履歴書を20件近く作成し、3か月間駆けずり回ったが、反応はなかった。そこで許氏は、2ページだけの履歴書を10枚余り作った。これが功を奏し、すぐさま何社からも面接の約束を取り付けた。

 大手数社から熱心に誘われた許氏は、最終的にあるチェーンストアと契約をした。許氏はこれについて、「将来性があり、キャリアアップできる場があり、社長に才覚があると感じた」と、社長の情熱は言い表せない様子だった。それはまた、許氏の決断力や将来への鋭い眼差しを示すものであった。こうして一般社員から始まり、着実性や向上心、チャレンジ精神や粘り強さをもって、たちまちにして事務部門のトップになった。てきぱきした見事な仕事ぶりが社長に評価され、また社長とは良き友人になったのである。

 1995年末、この会社の代表格になっていた許氏に人生最大のチャンスが訪れた。広東省で不動産業を手掛けるよう命じられたのである。洞察力抜群だった彼は、高度成長をしている広東省では間違いなく不動産業界が脚光を浴びると見て、大志を抱いて頑張っていこうと決めた。すぐさま荷物をまとめ、会社の委託と社長の信頼を引っ提げて広州へと旅立った。

 リーダーとして二回目の創業の道のりは、容易なものではなかった。運転手と会計係と実務担当、社員たった3人で立ち上げた。お金もなかったので友人から10万元(約176万円)を集め、節約のため郊外で民家を事務所として借りた。資金も事業もなく、あちこちに広告を出して客を求めた結果、3か月弱でようやく活動資金として2000万元の銀行融資を受けた。そして1年半弱の努力により、広州の業界内ではある程度の規模でそこそこ有名な不動産会社となった。本人も会社にかなりの貢献をしたのである。

 実際に会社の立ち上げを始めた1996年にはすでに商社の代表格になっていた許氏であったが、ゼロからスタートし、前の会社の社員7、8人とともに恒大実業集団を立ち上げた。資金は少なかったが、これまでの十数年間で蓄えた豊富な経験を活かし、中国最高のマンションとも言われる広州金碧花園を作り上げた。恒大実業の立ち上げから1年余り経った1998年、この事業をスタートさせたところ、大変な人気を集め、こうして「儲け所」が成り立ったのである。

■10年間で「中国トップ」に

 許氏が実際に会社の立ち上げを始めたのは1996年、ゼロからスタートし、前の会社の社員7、8人とともに恒大実業集団を設立した。資金は少なかったが、これまでの十数年間で蓄えた豊富な経験を活かし、中国最高のマンションとも言われる広州金碧花園を作り上げた。これが一躍有名になり、「中国都市化マンションベスト50」に選ばれた。

 1998年6月23日、広州市で、都心部で初めての土地競売会が行われた。当時まだ無名だった恒大集団は、1・34億元(約23億6000万円)で海珠区南州路の農薬工場の敷地を手に入れた。建物部分の平米当たり地価は686元という安さで、譲渡金は1年間の分割払いであった。買い手のなかったこの地が許氏の現在の地位を作り上げたのである。

 ここで開発した金碧花園を許氏は平米あたり2500元で売り出した。安値だったことから、この年の海珠区で売れ筋のマンションとなった。業界関係者によると、この事業で許氏は少なくとも5、6億元(約100億円)は手に入れたという。これも儲け所なのであった。

 その後の許氏の働きぶりは目を見張るもので、無名の企業をわずか10年間で、上場会社「恒大地産」など十数社を配下に抱えるグループ会社に仕上げ、広州市の大手投資集団10社、中国不動産大手百社に数えられ、さらには中国の大手500社に名を連ねるようになった。

 恒大集団は、不動産のみを手掛けていれば、これほど早く経営危機に陥らなかっただろう。

 実業家として成功した許氏は、不動産開発では飽き足らず、多角経営に乗り出した。

 恒大集団には、恒大地産、恒大物業、恒騰ネットワーク、房車宝、恒大童世界、恒大健康、恒大氷泉といった各事業のほか、450億元(約7928億円)をかけて立ち上げた恒大新エネルギー自動車もある。八つの業種がずらりとそろった姿は、まるで巨大な航空母艦の艦隊にも見えるが、これらを働かせるその資金はどこから出てくるのだろうか。

 許氏の戦略は「借金」、お金を借りることだった。

この結果、恒大集団の負債率は今年8月現在で185%に達した。去年1年間で7000億元(約12兆3333億円)の融資を受けている。

 しかし、不動産業界に対する銀行融資の規制策が打ち出されたことで、資金が回らなくなり始め、株価は今年に入り80%も値下がりしている。

 栄光の人生は、むやみな拡張で終焉を迎えたのだった。(中経 速水静)