中国「杉杉グループ」の創業者が東京で急死 破産・再編を申請

2025/03/2 07:30

2年前の2023年2月10日、中国の著名実業家で「杉杉グループ」の創業者である鄭永剛氏が、心臓発作のため東京の六本木にある自宅マンションで急死した。

リーダーを失ったこの大企業は方向性を見失い、破産や再編を進めるような状態に陥っている。

鄭永剛氏の妻である会長の周婷氏は2月7日、浙江省寧波市鄞州区の人民裁判所で行われた杉杉グループの破産や再編に関する公聴会で、「今日まで歩んできたが大変残念だ。もう全力を尽くした」と無念のコメントを発した。

上場企業である杉杉グループの創業から破産申請までの道のりを見ると、中国の同族会社における経営の難しさや問題が見えてくる。

杉杉グループは、1989年に鄭永剛氏が引き継いだアパレル工場の「寧波甬港」を前身として、1994年に寧波市で設立された。それから年を重ね、単なるアパレルメーカーから衣類の製造や販売、貿易、リチウム電池材料、ソーラーパネルなど、多角的な総合会社に変わっていった。2007年、2008年には資産額が100億元に達し、特にリチウム電池材料について、中国で初めて負極材料の産業化を果たし、世界の市場でも重要な地位に立った。またLG化学の偏光板事業を買収し、この分野で世界のリーディングカンパニーになっている。

そのほか、伊藤忠商事が長年にわたりと提携先としており、中国の大切なパートナーとなっていた。

2024年は9億元の赤字を計上

ところが杉杉グループはこのところ、経営が悪化の一途をたどっていった。電気自動車(EV)の競争の激化、原材料価格の高騰、世界経済の減速など様々な要因で、利益が大きく縮小してしまった。中国経済の不振も成長の足を引っ張っていた。2025年1月26日に発表した業績予想によると、2024年は約9億元の赤字計上との見込みで、複数の銀行で多くの株式が差し押さえられた。

鄭永剛氏は、ゼロからの起業でアパレル業からリチウム電池へと導き、ビジネスの嗅覚や果敢な意思決定で杉杉の黄金時代を築き上げた。

ところが、2度の結婚や4人の子供、そして後継者選びが、後にトラブルを引き起こす火種となった。

元妻との息子である鄭駒氏は幼いころから期待を担い、エリート教育や商売の薫陶を受け、会社を背負って立つ人になると見られていた。

ところが周婷氏が現れたことで、家族内部の権力構成が複雑になっていった。

鄭永剛氏と周婷氏のなれそめは、純愛物語ではなく現実路線を歩んだ結果と言えるものだった。

周婷氏はEMBAでダブルマスターを取得し、上海第一財経チャンネルのキャスターを務め、ビジネスエリートとの接触も多かった。一方で鄭永剛氏は、私生活の空白を埋めるべく若くて美貌な妻が欲しかった。

年の差24歳という2人の結婚については当初から疑問視されていた。鄭永剛氏が周婷氏に対して会社の役職を与えなかったことからも、用心する姿がうかがえた。

この点は周婷氏も重々承知しており、3人の子供を産んで、良妻賢母を演じ、「柔よく剛を制す」という道を歩んだ。

杉杉グループの創業者鄭永剛氏`と再婚妻の周婷氏

鄭永剛氏の心をつなぎとめていれば財産も権力もいずれ自分と子供たちのものとなる、と思っていた周婷氏だったが、この計画は鄭永剛氏が急死したことで崩れてしまった。

2023年2月、鄭永剛氏は東京で、心臓発作のため死去した。遺言は残していなかった。

よって、鄭永剛氏が手塩にかけて育てていた鄭駒氏が、ほぼ当然のごとく会社を受け継ぐものとされ、株主総会でも会長に就任させることで一致した。

ところが周婷氏は納得せず、鄭駒氏に対し、筆頭株主として未成年の子供3人とともに挑戦状を突き付けたのである。

家族内の権力争いが破産への道を速める

鄭駒氏は就任後、能力をアピールしようと前のめりに動いた。フィンランドのリチウムイオン電池メーカーに多額の投資をした上、韓国とベトナムの会社を買収するなど、強硬な投資戦略を講じた。

しかし投じた巨額の資金は思うような見返りを得られず、逆に会社の資金繰りが一段と悪化し、業績も落ち込んでいった。

鄭駒氏は一年後にやむなく退任し、周婷氏が後始末を担う羽目になった。

これについて、致し方ない結果だという声もあれば、鄭駒氏が巧妙に仕込んだわなだという見方もあった。真相のほどはともかく、周婷氏はこの「穴」にはまってしまったのである。

経済番組を受け持ちビジネス界の有名人への取材経験もある周婷氏だったが、企業のマネジメント経験は事実上ゼロで、掲げた事業計画は見た目パーフェクトであったが実行するすべはなかった。

債務を抱え、市場競争やマネジメントの乱れを前に、お手上げ状態であった。

その三か月後、杉杉グループは急速に経営が悪化して、破産・再編という末路に向かった。周婷氏の兄の周順氏がしばし会長職についたが、もはや手遅れだった。

周婷氏の失敗は本人の能力不足でもあり、同族会社である杉杉グループの受け継ぎ体制の失敗でもあった。

鄭永剛氏は、周婷氏に対し、用心していたあまりに会社の事業の習得や関与をさせなかった。また鄭駒氏への教育も、理論にこだわりすぎて実践の積み重ねをおろそかにしていた。

さらに、家族で権力争いをしたことも会社の状態を一段と悪化させる結果になった。

杉杉グループの破産・再編で、鄭永剛氏が一手に築き上げたビジネス帝国は終焉を迎え、周婷氏も見栄え十分のキャスターから巨額の債務を抱えて破産した会社の責任者に成り下がった。

かつて野望たっぷりだった周婷氏は今、限りない後悔や無念に襲われてしまった。名門企業の愛と憎しみは結局、共倒れという結末を迎えたのである。

杉杉グループの没落は、鄭永剛氏の急死に端を発したものであることが見えてくる。

鄭永剛氏の死は、カリスマ経営者の消失だけでなく家族の権力争いを招く結果となった。

生前の跡継ぎ問題への対応方法が、後に発生する危機の導火線になっていた。

今回の事例は中国で、同族会社に対する警鐘となり、跡継ぎについては財産の引き渡しだけでなく企業文化や経営理念の引継ぎがより大切なものと教えてくれた。

家族の中でマネジメントのスキルや経験が不十分であれば、たとえ巨額の財産を受け継いでも企業の存続が保証できなくなる。

よって、同族会社が激しい市場競争の中で存在感を確保しようとするなら、マネジメントのプロを登用し、今の時代に合った企業制度を打ち立てた上、市場の変化に合わせて適時路線変更していくことが必要である。

同族会社はしばしば、「創業者個人の力に頼りすぎ」が最大の問題となることが多い。成功した理由がほぼすべて創業者自身の魅力によるものとされた場合、その魅力を後継者が担えなくなってしまえば、企業はたちまちマネジメントに穴が開いてしまう。こうした穴はえてして、常に爆発する可能性をはらむ時限爆弾になりうる。

(中国経済新聞)