4月5日午後、仏マクロン大統領の飛行機が北京に到着した。その際、マクロン大統領とともに飛行機から降りた中国のトップ女優コン・リーと仏シンセサイザー奏者の夫ジャン・ミッシェル・ジャールの姿が大きな話題となった。なぜ、フランス大統領はコン・リー夫妻に訪中の随行を依頼したのだろう?
コン・リーとは、どのような人物なのか?
1965年に遼寧省瀋陽市で生まれたコン・リーは、末っ子として両親に可愛がられ育った。幼少期から踊ることが大好きで、1983年に演劇教育を専門とする中国屈指の名門大学「中央戯劇学院」を受験するが失敗、その後働きながら勉強を続け、1985年に入学を果たした。同年、主人公役を探しに大学へ来ていた映画監督のチャン・イーモウ(張芸謀)に見出され、1987年、チャン・イーモウの監督デビュー作『紅いコーリャン』で映画初出演にして初主演を飾った。同作は、世界中で大きな反響を呼び、ベルリン国際映画祭では最高賞の金熊賞を受賞した。チャン・イーモウは、中国映画を代表する世界的映画監督となり、コン・リーは22歳という若さでトップ女優の仲間入りを果たした。
その後、コン・リーとチャン・イーモウは8年にわたり数々の名作を世に送り出した。コン・リーは『秋菊の物語』で陝西省北部訛りのある農民女性を演じた。彼女は撮影の何ヶ月も前から同地に滞在し、撮影中は誰も彼女がコン・リーだと気づかないほど方言も完璧で風貌も現地の人のようだった。圧巻の演技によりコン・リーは、同作でヴェネチア国際映画祭主演女優賞を受賞、息の合った2人はスクリーンの外でも愛を育んでいった。しかし、8年におよんだ関係も終わりを迎え、2人は別々の道を歩むこととなった。
コン・リーは、その後も順調にキャリアを積み、1993年にはチェン・カイコー(陳凱歌)監督作『さらば、わが愛』に主演、第46回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。1994年には再度チャン・イーモウとコンビを組み『活きる」を制作、第47回カンヌ国際映画祭で審査員グランプリなどの賞を受賞した。
1997年、第50回カンヌ国際映画祭の審査委員長に選ばれ、中国人として初めて同映画祭の審査委員長を務めた。2004年、カンヌ国際映画祭でコン・リーは、同映画祭への貢献が認められ記念大賞を受賞、2010年には、フランス文化省からフランス芸術文化勲章最高章である「コマンドゥール」を授与された。
2019年5月、第72回カンヌ国際映画祭にコン・リーはジャン・ミッシェル・ジャールと一緒に出席。2人は空港で手をつないで登場し、報道陣に結婚したことを発表した。夫のジャン・ミッシェル・ジャールは、その後のインタビューで、2人はパリの友人宅で出会い、彼女に一目ぼれし交際が始まったと語っている。
ジャン・ミッシェル・ジャールと結婚する以前、コン・リーには2度の有名な恋があった。ひとつはチャン・イーモウとの恋。もうひとつはシンガポールの実業家、黄和祥との恋。2人は1996年に結婚、喧嘩もなく関係は良好だったが、多忙なため会える時間が少なく2009年に離婚した。
今回、マクロン大統領の訪中には20人以上の文化人が代表団に随行、フランスと中国の文化交流を更に加速させる良い機会となった。マクロン大統領は、来年はフランスと中国の国交樹立60周年にあたり、両国の文化観光年として多くの文化観光交流が行われる予定だと述べた。
ジャン・ミッシェル・ジャールは演奏家、作曲家、シンセサイザーの巨匠として世界中で知られ、1980年代には、北京と上海で欧米のミュージシャンとして初めてコンサートを開催、中国文化に精通している。コン・リーは、中国とフランスの両国で大きな影響力を持ち、両国の間を頻繁に行き来している。コン・リーとジャン・ミッシェル・ジャール夫妻は、中仏両国の文化交流における重要な担い手であり、マクロン大統領も2人の更なる活躍を期待しているのではないだろうか。
(中国経済新聞)