滴水湖故事

2025/11/1 08:30

残暑厳しい初秋のある日、ほぼ10年ぶりに滴水湖まで足を伸ばしてみた。

 滴水湖とは浦東新区の南東部に位置する臨港新区に造られた巨大な人造湖である。数多い上海の美しい人造湖のひとつで、崇明島の北湖に次いで上海では2番目の大きさを誇る。直径2・66㎞で総面積約5・56㎢の美しい円形の湖は浦東空港を発着する飛行機の窓からも見下ろすことが出来、地図で見るとまるで魚の目のようにも見える。

 自宅から2時間ほどかけて、ようやく終着駅の滴水湖駅に着いた。外に出た途端、爽やかな風に身を包まれた。 さすが上海で最もPM2・5が低い滴水湖だ。新鮮な空気を吸いながらあたりを見回すと、かすかな記憶とは全く異なる風景が広がっていた。駅周辺はすっかり整備され、立派なビル群が立ち並んでいた。駅前広場をぬけて歩くとほどなく巨大な滴水湖が目の前に広がった。ここはかつて遠浅の海の干潟だった。2002年6月、今では東海大橋でつながる洋山深水港の建設に伴う臨港新城開発の目玉として始まった湖の工事は2003年10月にほぼ完成。最深部は6.2mで、掘り出した土の量は金茂ビルの15個分、広さは杭州の西湖とほぼ同じとされる。

 ただし上海中心部から70㎞以上も離れており、自宅最寄りの10号線の駅からだと、途中11号線、16号線に2度乗り換えて約2時間ほど、車でも1時間30分ほどもかかるため、そう頻繁に足を延ばすことができない。2013年末に開通したばかりの地下鉄16号線の試乗をかねて終点の滴水湖駅で降りてみた時は、目の前には広大な湖面が広がるばかりで周辺にはまだ何もなかったと記憶している。それゆえ10年で変貌した滴水湖との再会をずっと心待ちにしていたというわけだ。

 湖岸に沿って走ると遊歩道、ジョギング道、自転車道が完備され、多くの人が行き来していた。最初に目に付いたのは実にユニークで個性的な彫刻作品の数々だ。これらは2020年8月に開放された「人民大衆」を主題とした「中国名家主題彫塑園」に展示されたおよそ百点の作品群である。

 しばらく走ると、駅を出てから目立っていた巨大なツインタワーについた。ここは滴水湖にある3つの島のうちの一つ、西島にある高さ200m、39階建ての中銀金融中心のツインビルである。完成間近なこのビルは2019年設立された自由貿易試験区としての臨港新片区のシンボルとされる。国際的レベルの競争力のある経済特区を目指し、暮らしと産業とが一体化したスマート・エコシティの建設を目指したプロジェクトで外資系グローバル企業は言うまでもなく、150近い日系企業もすでに進出しているという。

 しばらく走ると南島についた。ここには独特な形状が印象的な5つ星ホテル、滴水湖皇冠暇日酒店がある。2023年4月に開業したこのホテルは南島の全域を占め、その独特な形状は花と葉と実の調和を表現しているとされる。南島にはヨットハーバー、水上バイク、遊覧船などのデッキも数か所にあり、マリンスポーツを楽しむ市民の姿も数多く見られる。

 更にそこからいくつかの児童公園やスポーツ関連施設、そして湖展望スポットを横目にしながら走って疲れを感じた頃、臨港生態公園と臨港芸術中心のある文化芸術の島、北島にたどり着いた。一帯は緑地が広がり、テント設営地も広く、まさに市民の憩いのスポットとなっている。

 湖を自ら周回することで、経済とビジネス、レジャーとエンターテイメント、、そして芸術と文化をコンセプトとする3つの島を擁する滴水湖が中国の未来社会のひとつの理想形を提示していることを肌感覚で実感できたのは嬉しい。

 湖を反時計回りに走っていると、左にずっと気になるものが見えていた。湖のちょうど真ん中にあり、陽ざしに反射してきらめいている大きな円い銀色のオブジェである。これは「(水)滴」という彫刻で、「天から滴り落ちた1滴の水が湖を形成する」という意味を表現しているのだという。当初、滴水湖のシンボルとして創作された作品は今ではこの臨港区の象徴となっている。

 最後にひとつの逸話にもふれておこう。2003年8月、完成間近の滴水湖に迷い込んだ一頭の子鯨を関係者が協力して海へ帰した際、子鯨は何度もふり返ったのだという。この逸話から「滴水之恩、当湧泉相報」(一滴の水の恩は泉となって報いる)という故事にちなんで滴水湖と名付けられたともされる。まさに自然と人の調和を象徴するエピソードで、子鯨が去った東海に面した公園には今、巨大な鯨のオブジェが設置されている。

 およそ10年ぶりの滴水湖だったが、帰宅した夜、窓外の中秋の月を愛でながら、満月のような滴水湖に映し出されていた中国社会の未来像を想像していた。人と自然、文化と経済、暮らしと技術が見事に円満に調和した未来社会へむけて「一滴の水は天から滴り、大海に注ぐ」ことを。

(文・ 松村浩二)

【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。