「小米」創業者雷軍氏の人生と夢の軌跡

2025/05/2 12:30

3月29日、安徽徳上高速道路で、小米汽車の初モデル「SU7」が路基に衝突し、爆発炎上するという事故が起きた。この事故で、車内にいた3人の女子大学生が命を落とし、小米汽車とその創業者である雷軍(レイ・ジュン)に大きな注目が集まった。この悲劇は、先進技術を誇る小米汽車の安全性に対する疑問を投げかける一方で、雷軍のこれまでの功績と彼が築き上げた評判に深刻な打撃を与えた。では、雷軍とは一体どのような人物なのか。彼の人生と、小米という企業を立ち上げた物語を振り返ってみよう。

幼少期と学生時代:努力家の少年

雷軍は1969年12月16日、中国湖北省仙桃市に生まれた。湖北省は中国中部の内陸に位置し、工業や農業が盛んな地域だが、決して華やかな大都市ではない。雷軍の両親は教師で、家庭は経済的に豊かではなかった。月給わずか7ドルという父親の収入の中で育った雷軍は、幼い頃から質素な生活を強いられた。しかし、彼には電子機器への強い好奇心があった。子供の頃、ラジオを分解しては組み立て直すのが好きで、父親はその興味を応援してくれた。ある日、彼は2つの電池と電球、そして自作の木箱とワイヤーを使って村で初めての電気ランプを作り上げた。この経験が、彼の技術への情熱の原点となった。

1987年、18歳の雷軍は湖北省沔陽中学を卒業し、優秀な成績で武漢大学計算機科学科に入学した。武漢大学は中国でも名門とされる大学で、雷軍にとっては人生の転機となった場所だ。彼は大学時代に驚異的な努力を見せ、わずか2年で4年間の必修単位をすべて修了し、卒業設計まで終えた。この驚くべきスピードは、彼が授業時間を圧縮し、重点科目は半分、非重点科目は4分の1だけ聴講するという独自の学習法によるものだった。空いた時間はすべて独学に充て、コンピュータの知識を深めていった。大2からは雑誌や新聞への寄稿で原稿料を稼ぎ、経済的独立を果たした。この時期、彼は「武漢大学すべての奨学金を総なめにした」と後に語っている。

大学時代、雷軍は友人とともに「黄玫瑰工作室」を設立し、BITLOK暗号化ソフトや免疫90ウイルス対策ソフトなどの開発に取り組んだ。特にBITLOKは当時のプログラマーや開発者の間で評判となり、「売れ行きがよく、結構稼いだ」と雷軍自身が振り返るほどの成功を収めた。また、『DOSプログラミング入門』や『Windowsプログラミング入門』といった書籍も執筆し、技術者としての基盤を固めていった。1990年、理学士号を取得して卒業した彼は、すでに武漢の電子街で名の知れた存在だった。

金山軟件でのキャリア:挫折と成長

大学卒業後、雷軍は北京に移り、1991年末に求伯君(キュウ・ハククン)と出会った。求伯君は中国のソフトウエア業界で有名な人物で、金山軟件(キングソフト)の創業者だった。1992年、雷軍は金山軟件の珠海研究開発部でインターンを始め、同年7月に正式に入社した。当時の中国では、国産ソフトウエアの開発が急務とされており、金山はWPSというオフィスソフトでその旗手となることを目指していた。雷軍は北京開発部の設立に尽力し、1994年には北京金山軟件会社の総経理に就任した。

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