農場の働き手から借金での会社起こし、三輪車での配達係から資産1000億元(約2兆円)の富豪へ。2024年2月25日、中国の飲料大手「ワハハグループ」の創業者である宗慶後氏のレジェンドな人生が幕を閉じた。
ワハハは2月25日午前、公式ブログで、「創業者で会長の宗慶後が病気のため2024年2月25日10時30分に79歳で死去した」と発表した。
2月28日午前10時に、浙江省杭州にあるワハハの下沙事業所(杭州市銭塘区白楊街道10号大街と5号大街の角)で、宗氏の追悼会が行われる。
宗氏は今年の春節前に、肺がんが悪化して邵逸夫医院に入院していたという。80歳を前にしながらも、グループの指揮を執っていた。
公開情報によると、宗氏は1945年10月に江蘇省宿遷で生まれ、4歳の時に両親とともに本籍の浙江省杭州に転居し、中学校を卒業後に馬目の農場や紹興の茶畑で14年間働いた。宗氏は後にメディアの取材に対し、当時の経験について「体つきがたくましくなり、難攻不落の意志が築かれた」と語っている。
1978年、宗氏は母の後を継いで杭州労働学校の段ボール工場で働き始めた。ビジネス作家の呉暁波氏は「激動の三十年」で、「杭州に戻った宗氏は、市街地で教科書のセールスをしたりアイスクリームを売ったりした。猛暑の中、しばしば1人で小学校の校門まで三輪車を走らせて色々な物を売っていた」と書いている。1985年ごろには健康食品の会社で花粉飲み薬の販売を始めた。そこで宗氏は、この市場に見込みがあると感じた。
1987年、宗氏の人生が大きく動く。この年4月に市街地にある大学運営企業の営業部の委託を受け、炭酸飲料やアイスクリーム、文房具や紙などの販売を手掛けて、起業家への道を歩み始めた。同年7月には「花粉飲み薬」の売上金と銀行融資の5万元を元手に、「花粉飲み薬」の杭州保霊の受託メーカー「保霊児童栄養食品廠」を杭州に設立した。ここから「ワハハ」の創業への道のりが始まった。
1988年、「一人っ子は食事を嫌がり偏食をする」でビジネスチャンスを見出した宗氏は、浙江医科大学栄養学部の朱寿民教授の元で「子供用栄養ドリンク」を造り出した。これが「ワハハを飲んだらご飯もおいしい」との広告コピーで全国的商品となった。そこで社名も「杭州娃哈哈栄養食品廠」に変更した。1990年、宗氏は資本の蓄積をほぼ完了し、会社の生産高は1億元を超え、利益も2000万元以上となった。
1991年、宗氏は杭州市政府の支援のもと、赤字状態だった缶詰製造大手の「杭州罐頭食品廠」を8000万元で買収し、6万平方メートルあまりの建屋と2200人の社員を手に入れて、「杭州娃哈哈集団」を創設し、会長兼総経理に就任した。杭州罐頭はそれまで4000万元以上の赤字を抱えていたが、3か月後に黒字化を果たし、売上高も利益も2倍以上になり、翌年には売上高4億元、純利益7000万元以上となった。
宗氏の牽引する「ワハハ」はそれから30年以上経ち、飲料水、飲料、健康食品を取り扱う食品・飲料業界のトップメーカーに成長していった。
宗氏が育てたワハハグループは、2021年~2023年に連続して売上高が500億元(1兆円)を超え、中国29の省・市・自治区に81か所の生産拠点を設け、子会社は187社、社員数は3万人近くに達した。会社の規模も収益効果も20年間にわたり業界トップを走り続けている。中国の企業上位500社、製造業上位500社、民間企業上位500社の中でも上位に位置している。
ワハハは、資本の蓄積をほぼ終えたのちに他社を買収する力をつけ、1994年には水害で経営困難となった涪陵の3社を吸収して「ワハハ涪陵」を設立した。この会社は2016年までに売上高が累計90億元(約1882億円)を超え、17億元(約355億円)以上の利益を出すに至った。
「ワハハ」は今、飲料水、タンパク質飲料、炭酸飲料、茶系飲料、果汁飲料、コーヒー類、植物飲料、特殊飲料、缶詰、乳製品、サプリメントなど10以上の分野で、200以上の品目を扱っている。このうち飲料水、「ADカルシウムミルク」、「栄養快線」、「八宝粥」は国民的商品となっている。食品や飲料の開発や製造のほか、業界では異例となる自社で開発、デザイン、製造をした金型や、飲料生産設備、産業用ロボットを備えた会社でもある。
宗氏と娘の宗馥莉氏
宗氏は以前、人民日報の取材に対し、「私は普通の人だ。幸いにしていい時代に巡り合った」と述べている。
宗氏は、2010年~2013年の4年間で、フォーチュングローバルの長者番付で3回にわたり中国人としてトップに選ばれた。
「ワハハ」は2021年12月9日に、宗氏の娘の宗馥莉氏が副会長兼総経理に就任し、同日から日常業務を受け持つと発表した。「宗馥莉氏は宗慶後会長とともに、会社の安定成長へいつまでも力を注いでいく」と発表している。
(中国経済新聞)