北京はなぜ、二度目の五輪を静かに断ったのか

2026/10/29 11:30

2008年の北京。あの年、街のどこを歩いても、五輪の歓迎ソング『北京歓迎你』が流れていた。タクシーの中でも、商店街でも、学校の校庭でも。人々の胸には、確かな誇りがあった。中国が成長した姿を世界に披露する、一つの国の「成人式」。そのためなら、いくら費用がかかっても惜しくない。多くの人が、そう信じていた。

 あれから18年が過ぎた。かつては世界の大都市が競い合った五輪の招致も、今では開催に伴う負担が厳しく問われるようになった。国際オリンピック委員会(IOC)にとっても、開催意欲のある都市を確保し、その支持を維持することは容易ではない。かつて招致を目指したハンブルク、ブダペスト、ローマなどは、住民の反対や財政負担への懸念を背景に撤退した。2024年と2028年の夏季大会は、パリとロサンゼルスへの開催権の付与が同時に決まった。

 五輪への期待が消えたわけではない。ただ、その華やかさの背後にある費用を、都市や市民が慎重に見極めるようになったのである。中国についても同じ問いが成り立つ。2008年の夏季大会に続き、北京は2022年に冬季大会も開催した。では、再び夏季五輪を招致することに、どれほどの意味があるのだろうか。

「国の威信」「黒字」「大会の成功」を両立させる難しさ

 五輪を開催する都市は、国や都市の知名度を高め、財政負担を抑え、素晴らしい大会を実現したいと考える。しかし、この三つを同時に達成するのは難しい。演出や施設を豪華にすれば費用が膨らみ、支出を抑えれば、期待されたほどの大会ではなかったという評価を受けかねない。

 2008年の北京にとって、特に重要だったのは、国の威信を高め、大会を成功に導くことだった。大規模な開会式や、メインスタジアム「鳥の巣」に象徴される施設は、その意思を世界に伝えた。当時の中国には、経済成長だけでは十分に伝わらない自国の変化を、広く知ってもらう舞台が必要だったのである。五輪への支出には、国家イメージや国際的な存在感、そして国民の自信を育むという意味があった。

 今は、その前提が変わっている。中国は世界有数の経済大国となり、高速鉄道網を広げ、独自の宇宙ステーションを運用し、幅広い産業を支える供給網を築いた。国の成長を示すために、再び五輪という舞台を必要としているのか。その問いへの答えは、2008年当時とは異なるはずだ。

 最初の夏季五輪が「成人式」だったとすれば、次の開催は記念行事に近いものになるかもしれない。記念行事にも意義はある。しかし、多額の公費を投じるのであれば、新たに何が得られるのかを、以前より厳しく説明する必要がある。

 北京大会以降の開催都市は、あの大会との比較にもさらされてきた。規模や演出を抑えれば物足りないと評され、同じ水準を目指せば財政負担が膨らむ。北京は五輪に対する期待を大きく引き上げた。その後の都市は、その期待に応えるか、それぞれの事情に合った大会像を打ち出すかという選択を迫られたのである。

祭りのあとに何を残すのか

 五輪の費用を考える時、大会期間中の収支だけを見ても全体像は分からない。競技施設や交通網の整備、その後の維持管理まで含めて、長い時間軸で評価する必要がある。

 アテネ大会では、閉幕後に十分活用されない施設が問題となった。リオデジャネイロでも、大会後の一時期、施設の荒廃や管理の不備が報じられた。こうした光景は、五輪が終われば、施設の役割が自動的に決まるわけではないことを示している。ただし、その後に改修や再利用が進む場合もあり、大会直後の状況だけで将来まで判断することもできない。

 東京大会では、新型コロナウイルスの感染拡大によって開催が1年延期され、2021年の大会は大半の会場が無観客となった。想定していたチケット収入や観光需要が失われる一方、延期や感染対策に伴う負担が生じた。私は当時、静まり返った国立競技場の周囲を歩きながら、これほどの施設を今後どう活用していくのだろうと考えたことを覚えている。

 パリ大会は既存施設や仮設会場の活用を重視したが、それでも都市の環境整備には多額の資金が必要だった。セーヌ川の水質改善も、その一つである。もっとも、こうした事業が長期にわたって市民の生活に役立つのであれば、費用のすべてを大会だけのための支出とみなすことも適切ではない。

 結局、重要なのは、五輪のために何を建てたかだけではない。閉幕後に誰が使い、誰が管理し、その費用をどう負担するかである。大会中の名声は一時でも、施設の維持管理は何十年も続く。招致を判断する時には、この時間の長さを見落とせない。

収入と負担はどう分かれるのか

 五輪には、もう一つ分かりにくい仕組みがある。放映権料や世界的なスポンサー契約による収入は主にIOCが管理し、その一部が大会組織委員会や国際競技連盟などに配分される。一方、開催都市や政府は、施設整備、交通対策、警備など、幅広い負担を担う。

 収入の一部が開催側に還元されるとしても、都市全体で発生する費用をすべて賄えるわけではない。大会組織委員会の収支が均衡していても、公的部門が負担した建設費や大会後の管理費まで含めれば、別の評価になることがある。「五輪は黒字だった」という説明を聞く際には、どこまでを収支に含めているのかを確認する必要がある。

 競技によっては、施設の再利用も容易ではない。例えば、カヌーのスラローム会場は、大会中には大きな注目を集める。しかし、その後も競技者や一般利用者を継続的に確保できるかどうかは、地域の需要や運営方法に左右される。水の管理、設備の点検、安全確保には費用がかかる。建設を決める前から、閉幕後の利用計画を具体的に考えておかなければならない。

 五輪は、夜空を彩る大きな花火にも似ている。人々を感動させ、都市の名前を世界に届ける力がある。その一方で、打ち上げた後の負担は地元に残る。2008年にその効果を十分に得た北京が、再び同じ規模の支出をする必要があるのかと考えることには、合理性がある。

それぞれの国に、それぞれの「成人式」がある

 では、今も五輪開催に意欲を示す国々は、費用を考えていないのだろうか。そうとは限らない。インドやインドネシア、カタールなどには、自国の成長を世界に示し、都市整備を進め、国際的な知名度を高めたいという思惑がある。そこには、2008年の北京につながる発想がある。

 五輪の価値は、開催する国や都市が置かれた状況によって変わる。国際的な認知度を一気に高めたい国にとっては、大きな投資になり得る。一方、すでに十分な知名度を持ち、都市基盤も整った場所では、追加で得られる効果が費用に見合うかを、より慎重に検討しなければならない。

 北京が再び夏季五輪の開催を目指さないことを、直ちに正式な「拒否」と受け止めることはできない。それでも、再招致を当然の選択と考えなくなったとすれば、そこには国家としての優先順位の変化が表れているのだろう。

 どの国にも、その世代なりの成人式がある。必要な時には、多額の支出にも意味がある。しかし、その役割を果たした後は、同じ支出を繰り返す意義を改めて考えなければならない。あらゆる犠牲を払ってでも開催を目指す時代から、必要性と負担を見極め、時には「今回は見送ろう」と言える時代へ。その冷静さもまた、一つの国の成熟を示しているのかもしれない。 

(中国経済新聞)