上海のバスー七十一路バスのこと

2022/12/30 11:58

上海のバスの歴史は古い。最初の軌道路線の誕生は一九〇八年に遡る。古い写真でよく目にする緑色の可愛らしい路面電車でわずか六キロあまりの路線だったが、一九四九年までには四十四路線、九百三十四車両、年旅客数二・三億人余りにまで発展し、さらに二〇二〇年にはさらに一五八五路線、一七七〇〇両、年旅客数二十四億人にまで激増する。一日当たりの利用者数は六百五十万人を超え、シンガポールの人口を上回るというから驚きだ。

そんな街中を往来するバスの中でも特にユニークなのが延安路BRT(七十一路電動バス)だ。黒とメタリックシルバーを基調としたボディーに赤いラインがスタイリッシュな車体はひときわ目立つ。二〇一七年二月の開通で、東は上海随一の観光スポット外灘延安東路と西は虹橋空港隣接の申昆路公交枢紐を一七.五キロを一時間余りで結ぶ。市の大動脈のひとつ延安路高架下にこのバス専用の赤い走行レーンがあり、信号停止以外での自然渋滞の影響は一切受けない。全ての停留所には地下鉄のようにホームドアが設置されているので安心だ。

驚くべきはその運賃。一律二元(日本円四十円)!そう、どこで乗ってもどこまで乗ってもたったの二元なのだ。地下鉄の初乗り料金が三元で十キロを超えると一キロ毎に一元加算されるのと比べれば一律二元は格安だ。支払いはスマホ決済する乗客が圧倒的に多く、時折、料金箱に落ちる硬貨の音が聞こえてくる。朝夕のラッシュ時は四、五分、通常時は七、八分間隔での走行というが、道路事情によりランダムとなる。たまに三台連続で来ることもあれば、十分待っても来ないことも。ただ停留所には最新の電光掲示板があり、画面上に到着順の時刻と混雑具合なども表示される。停留所は言うまでもなく、全ての車両が真新しく清潔で運転手も生え抜きの優秀ドライバー、加えて親切な女性車掌が常駐し、乗降時のアナウンス、忘れ物チェック、高齢者の昇降時の補助など様々なサポートをしてくれて至れり尽くせりなのだ。コロナ禍では場所コードスキャンを推奨されていたが、地下鉄ほど厳しくもなく、全乗客が常時マスク着用なので、よっぽど混雑している以外は不安を感じることもなかった。

この七十一路バスはもはや私の暮らしの一部である。虹橋空港周辺でのジョギング後、終点の申昆路から乗車して帰宅する際、必ず前から二列目右の最も見晴らしのいい一段高い席に座る。この席を私は勝手に「ファーストシート」と呼んでいる。景色がいいのでなんだか得した気分だ。ここに座って外灘の終点まで走れば、ちょっとした市内観光の気分を味わうこともできる。贈り物の花を求める日は虹井路で降りて五分ほども歩けば「虹井花鳥市場」が出迎えてくれる。体調が悪くなれば鎮寧路から徒歩三分ほどに上海随一の華東・華山病院があるし、願い事があれば同じ駅の目と鼻の先に圓明講堂というお寺もある。春秋のさわやかな土日には静安嘉里センターのある常徳路で降り、周辺で食事をして地下鉄で常熟路まで行き、老房子界隈を散策すればオールド上海の空気を吸うことができる。時候の良い休日の黄昏時にのんびり揺られて外灘まで足を伸ばせば、夜景を楽しみながらひと時の旅気分を味わうことさえできる。この時期、クリスマスシーズンから春節にかけては多くの通りがイルミネーションで飾られて実に華やかだ。

思えば初めて上海でバスに乗ったのはかれこれ三十数年前の蒸し暑い夏の夜だったろうか。二両編成の黄色いトロリーバスで空調もなく、妻の顔さえ見えない真っ暗な満員の車内で不安を抱いた記憶が鮮明だ。上海に来た一九九九年当時も騒々しいエンジン音と共に真っ黒な排気ガスをまき散らして走るバスをよく見かけたものだ。そして今、渋滞とは無縁で環境にもお財布にも優しく快適で安全な七十一路バスを前に隔世の感を禁じ得ない。 

上海市は二〇二五年までに九六%の路線バスを省エネ・新エネルギー車両とするという。交通渋滞の解消や大気汚染などの環境改善など市民のQOL向上におおいに寄与し続けるこの七十一路バスは、これからも多くの上海市民に利用され続け、環境・観光都市上海の象徴のひとつであり続けることだろう。

師走に入り、三年にわたった厳しいコロナ規制も緩和され始めたが、まだまだ気の抜けない日々が続く。それでも、以前と同じように、安心して自由に移動できるささやかなバス旅が出来る日常の幸せをかみしめる今日この頃である。

 (文・写真 松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。