晩秋の上海蟹随想

2022/11/25 16:18

先日、松葉ガニの初競りで一杯百万円で落札されたという日本のニュースが目に留まった。蟹の季節の到来である。上海で蟹と言えば、秋の味覚、上海蟹である。正式名、チュウゴクモクズガニという淡水蟹は「九雌十雄」とも言われ、旧暦の九月(新暦十月)の雌の卵、十月(新暦十一月)の雄の精子が絶品だ。この時期、市場やスーパーにずらりと大量の蟹が居並ぶ光景は圧巻だ。

つい先日、蘇州在住の妻の親族から「陽澄湖天然上海蟹」が送られてきた。タグ付きの陽澄湖産ブランド品だ。年間生産量二〇〇〇トンと言われる陽澄湖産は全体の0.3%ほどしかなく、価格も通常の三倍から五倍で偽物が流通していたため二〇二〇年には保護制度により国家お墨付きの「国字号ブランド」となった。一杯三百元(六〇〇〇円)以上もざらで、メスは大量の卵を持ち、オスは大きくぎっしりと肉が詰まっている。ただ、陽澄湖の水質保全のため人工池による養殖物が増加したのに加えて厳格な管理により、今後、陽澄湖の天然物はますます入手しにくくなるかもしれない。

さて、上海ガニの由来だが、四千年以上も前の夏朝は禹王の時代に遡るとされる。当時、蟹は「虫」と呼ばれ、稲を食べる害虫とみなされていた。禹王の命で治水工事をしていた折、「虫」の駆除のために溝に集め、そこに熱湯を注いだ際(雑草と一緒に燃やしたという説もある)、巴解という男が一口食べてみると、その美味に感動し、蟹を食べる習慣が根付いていったという。「解」さんが食べた「虫」で「蟹」というわけだ。一九三二年、魯迅は『今春の二つの感想』と題した講演で「最初に蟹を食べた勇者に心から感服する」と述べたが、その後は分野を問わず「先駆者」への賛辞として引用されているようだ。

顧みれば、初めて上海蟹を食したのはかれこれ三十年以上も前に遡る。妻の実家で馳走にあずかったが、最初食べ方が皆目わからず、出来るだけ礼儀正しく食べようとしたが、周りの食べ方に圧倒された。甲羅をえいっと剥ぎ、隅に付着したミソをとり、甲羅に残った汁を啜る。腹のふんどしとガニというエラを取り除き、真っ二つに割ったかと思えばジュルジュルと蟹みそを音をたてて吸い始める。それから足の中の肉を上手に取り出しては次々に口に放りこんでいく。その豪快な食べ方に圧倒される一方で、中国の食卓では珍しい「会話のない沈黙」の時間も印象深い。その後、上海に移り住んでからは、毎年十一月になるとどこからか上海ガニが送られ、数日連続で夕餉に蟹が並ぶことも頻繁にある。食べる回数に伴い、自分流の食べ方も身についた。私の場合、最初にハサミでありとあらゆる棘を除去する。そうすると安心してつかむことができる。食べる順番は、ミソを啜り、腹の肉を箸でかき出し、足の肉を半分に折りながら食べるという順番となる。今では家族の誰よりも早く、そして無駄なく食べられるのが自慢だ。上海では、上海蟹を食べ慣れた外国人は上海人として受け入れられるような雰囲気さえある。

上海蟹の食い合わせも面白い。たいてい蟹をゆでる際や食べる際に「生姜」を使う。そして、蟹を頬張りながら飲むのはビールではなく、紹興酒だ。最初なぜだか理解できなかったが、あとで知ってなるほどと合点がいった。中国のかの有名な学者、李時珍の『本草綱目』では「蟹性冷利」とあり、体を冷やす食物なので、それとは反対の「温」の物を同時に食べてバランスをとる必要がある。その「温」なるものが生姜であり、紹興酒なのだ。日本でも周知の柿と蟹の食い合わせの禁忌もそこから来ている。日本人によくある蟹とビールという組み合わせもこちらでは見られない。上海蟹を通じて、陰陽論に基づく漢方の知識がこうして日常の暮らしにしっかり根付いた暗黙知=暮らしの知恵になっていることが実感できるのは興味深い。

 コロナ以前は秋の深まりと共に市内のあちこちで一斉に臨時の上海蟹直売所が現れ、雑誌には旅行会社による様々な「上海蟹ツアープラン」の広告が紙面を飾った。秋の上海の味覚を堪能するためだけにわざわざ日本から訪れる観光客も大勢いた。本場、陽澄湖畔の「巴城」で、そして「王宝和酒家」などの名門老舗レストランで多くの日本の食客たちが上海蟹の虜になった。秋の上海蟹に舌鼓を打つ日本人旅行客はコロナ以前の秋の恒例だった。欧米人と比して圧倒的に日本人が目立ったのは、その繊細で深い味わいを知り尽くしていたからであろう。上海蟹はさながら食文化を通じた日中交流の貴重なツールでもあったのだ。

コロナ終息後に、笑顔で上海蟹を頬張る日本の食客たちの姿をこの上海で再び目にする日を待ちわびながら、今年の陽澄湖産の初物に舌鼓を打った晩秋の一夜に想ったことである。

(文・ 松村浩二)

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【筆者】松村浩二、福岡県出身、大阪大学大学院で思想史を学ぶ。上海在住24年目を迎える日本人お婿さん。